農耕は殺戮する・・・所有の概念から生産という活動の哲学まで、実に農耕という生活形態には現在の資本主義の本質的な考え方が内包されている

農耕こそが、文明の発生の基礎であることは、疑いないだろう。3大文明と呼ばれる、いわば人間としての人類の歴史(あるいは「今回の」歴史)は、全て特別 に豊饒な地域に始まった。農業による集中的な食物生産と余剰生産物の蓄積が、人口の集中、社会組織の発達、都市の発生を可能にしたのだ。原理的に「狩猟採集文化」を基礎にした都市の発達はあり得ない。つまり、地域や気候やその他の要因で、農耕の形態の違いや社会構造の違いはあるにせよ、ヨーロッパだろうがアジアだろうがアメリカだろうが、およそ「文明」と呼ぶにふさわしい、都市を持ち複雑な社会機構を持ったものは全て農耕を基礎にしているのだ。

農耕とは、まず第一に土地を確保することであり、さらに「生産」という行為をなすことである。これらがいわば「農耕の本質」なのだ。 土地の所有は農耕を物理的に開始する為に絶対に必要なものである。ある土地に定着するという住み方が、農耕によって可能となったのであると同時に、農耕を開始するためには土地に定着する必要があったのだと言うこともできる。

狩猟採集文化にも、生産活動が全くなかったわけではないだろう。狩猟活動の道具や調理器具を作るという行為も生産であると言えなくもない。しかし、狩りのために槍をこしらえるという行為と、何かを栽培し収穫するという行為の間には決定的な違いがある。農耕は必要に応じて工夫するという類の生産活動ではない。ある土地を耕し、肥料を加え、種を蒔き、手入れをして育て、やがて「種以上のもの」を収穫する。ここには、投資と利潤の回収という、その後発達したあらゆる産業のコンセプトがある。

所有の概念から生産という活動の哲学まで、実に農耕という生活形態には現在の資本主義の本質的な考え方が内包されているのである。つまり、農耕が始まった時点において、人類は現在の社会に向かって道を過たずに歩む方向を定めたと言っていい。農耕は既に「生活のひとつの形」であることを越えた、主義としての社会形態ですらあるのだ。

聖書の創世記にある、カインとアベルの挿話は、この点において暗示に富んだものである。神は農産物を捧げたカインを顧みられず、狩猟の獲物を捧げたアベルに慈しみを持たれた、とある。ここから「神は農耕に憂鬱である」という哲学を読むことができる。まさに創世記は農耕の発生が人類の滅亡への大きな第一歩であることを告げんとするかのようだ。その後、カインはアベルを殺害し、エデンの東へ追放される。イスラエルが未だ遊牧民であった頃の、様々な農耕民族や狩猟民族との不幸な接触がこのような視点を与えたのだろうか。

農耕の民が狩猟の民を殺害し、楽園から追放されるという筋は象徴的である。これは、農耕の持つもうひとつの特性を示唆するものだ。それが「農耕は殺戮する」というものである。

引用元:リンク

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=341266

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