明治天皇すり替え説:大室寅之祐とは何者なのか?

明治天皇はすり替えられており、今生天皇には大陸からの血が受け継がれているという。

本当なのだろうか??

「明治天皇が、実は摩り替えられていた」と聞くと、今や多くの人が”トンデモ”と思うかも知れませんが、これはかなり信憑性が高い話です。
写真は明治天皇(大室寅之祐)

明治天皇すり替え説とは
孝明天皇の子どもである明治天皇が皇位継承の際、すり替えられたというものです。
天皇家は南北朝時代の動乱の後、代々北朝の流れをくんでおり、南朝は99代の後亀山天皇で絶え歴史上では滅亡したことになっています。
しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がいて、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというものです。
今回は、南朝と北朝の歴史を追うことで、現在につながる対立構造を解明します。

南北朝対立の始まり
日本の中世は「武家」と「公家」が対立しており、花園天皇の後に即位した後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を計画した正中の変・元弘の変によって隠岐に流されましたが、天皇復活を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏・新田義貞らの協力で鎌倉幕府打倒に成功し、天皇中心の政治「建武の新政」(1333)を実施しました。
しかし、武士層の不満をかい、後醍醐天皇は尊氏と対立して政敵となり、建武の新政は2年あまりで瓦解してしまいます。足利軍に追われた後醍醐天皇は、比叡山から吉野に逃れて、1336年「南朝初代天皇」を宣下しました。
対する尊氏は光厳天皇(北朝初代)を擁立して「北朝」を宣言。ここから南北朝時代が始まり、60年あまりの変則的な「南朝(公家)」「北朝(武家)」という2つの皇統が出現することになりました。

南北朝両朝の合体
60年あまり続いた「南北朝」時代が終焉を迎え、両朝が合体するための和睦条件を提示したのは、将軍足利義満ですが、その裏づけ資料(近衛家文書に収められていた足利義満の起請文)を中世史家の三浦周行が発掘しました。
その内容は、
1.天皇の地位を象徴する三種の神器は、南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に譲渡される。その譲渡は「後護の儀式」によって行われる。
2.皇位継承は、旧南北朝両方により「相代」に行う。
3.旧南北朝の君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国々衛領」を領知させる。
というものでした。
このような3つの条件をのんだ後亀山天皇は、明徳3年(1392)に吉野から京都に「合体」の義に臨むため還行しています。
ただ、その後も皇位をめぐっては、ひと波乱もふた波乱もあり、最終的には北朝の後小松天皇が第百代の天皇として即位しましたが、その後は南朝から天皇が出ることはありませんでした。

明治維新は、南朝のクーデター
幕末から明治維新にかけての日本全国を巻き込んだ内部分裂は、端的に言うと南朝が北朝から政権を奪ったクーデターです。
大室寅之祐は、山口県の田布施から連れてこられましたが、山口県の周防・長門は1551年に毛利氏によって滅ぼされるまで、大内氏が一大勢力を築いていた拠点でした。大内氏は百済の琳聖太子の末裔を自称していたように、北朝鮮から流れ着いた正統派の公家である可能性が高く、室町中期以降、明や朝鮮、琉球などの東アジア貿易によって国内随一の経済基盤を有し、フランシスコ・ザビエルの滞在、キリスト教の布教も許されるなど、独特の文化圏を形成していました。
しかし、毛利氏によって滅ぼされると、毛利領となった防長の地に数多く残った大内氏の家人や傭兵の残党たちは、武家奉公人となって長州藩内で差別待遇を受けました。彼らの不満を利用したのが吉田松陰であり、彼らに南朝正統論をベースにした尊皇攘夷を説き、後に起こる倒幕戦争を勝利することによって騎兵隊の面々を士族へと引き上げるべく高杉晋作は奇兵隊を創設したのです。

公家社会に変容した明治以降の日本

明治維新後は、田布施町から岸信介と佐藤栄作という2人の首相が田布施町から出たのはそうした歴史の必然であり、岸、佐藤を含めて8人もの首相が山口県から排出されているのも決して偶然ではありません。
江戸から明治になり、制度も文化も大きく変動した理由は、秩序を重んじる武家社会から、貴族的で利益を重んじる公家社会へと転換したからです。
この流れは現在も続いており、現安倍首相の政策が悉く民意を無視し、市場主義的、権威的なのも、彼が岸を祖父に、佐藤を大伯父に持ち、南朝の流れを酌んだ人物であることを考えると腑に落ちます。

http://www.kanekashi.com/blog/2015/01/3657.html?g=131205

シェアする

フォローする