フィンランドの教育 学校は「学ぶ」ところ

学校は学ぶところ。これは万国共通の認識かもしれないが、学ぶとはなにか?
教育レベルが世界トップクラスといわれるフィンランドに学んでみる。

以下シニアつれづれ学び草リンクより引用します。
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フィンランドの学校は、小学校から大学院まで「学ぶところ」と発想されている。日本と同じじゃないか、どこが違うのかと一瞬思われるかもしれない。日本では教師が「教えるところ」になっている、と比較して言えば分かるだろうか。フィンランドでは、子どもでも大人でも、学習する側の立場の人が「学ぶところ」というのが徹底している。

重点がどこにあるかという比較の問題だから、いずれにも「教える」部分もあり「学ぶ」部分もあるのは当然である。正確に言えば、フィンランドは「学ぶ」に重点があり、日本は「教える」に重点がある、ということである。

学校での教師の役割を示してみれば違いが分かる。日本では、教師は「子どもに知識などを教え、“指導”する」役割がある。フィンランドでは、教師は「子どもなり学習者なりが学ぶのを“サポート=支援”する」役割があるという位置づけなのである。

日本でも、「問題解決学習」や「子どもの自主的な学びを支援」する教育というのが流行っているそうだ。しかし、これらは現在のところ、「学力を低下させた」とか「学級を崩壊させる」という批判が多く寄せられている。つまみ食い的に西欧風を導入するからである。

フィンランドであるいはヨーロッパで成功しているやり方を直接日本に持ち込んでも成功しないのにはそれなりの理路がある。子どもの側、学習者の側に「自ら学ぶ」「学校は教師に教えられるところではなく、自分から学び、分からないときにだけ教師の力を借りて学ぶところ」という考え方・習慣ができていないときに、急に教師側が「指導」から「支援」に変えても成功するはずがないということである。子どもは急に突き放されたように感じ、何をしたらよいか分からず、ガヤガヤし出し、クラスが崩れてゆく。子どもにとって見れば、今までそういう習慣がなかったのだからそうなるのはやむを得ないのだ。

学校は「教えられるところ」というより「自ら学ぶところ」という発想の仕方を徐々に身につけさせながら、徐々に教え方の方も変えてゆくというようにプロセスをしっかり踏まないと成功には至らない。図式化すれば、
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①学校とは「教師からみれば教えるところ」「子どもからみれば教えられるところ」
        ↓               ↓
③学校は「子どもが自ら学ぶところ」「それを教師は支援するところ」
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①から③への変換は飛躍しすぎる。それを可能にするためには、間にあるプロセスを置く必要があるということだ。長く行われてきた習慣というものは急には変えられないのだ。急変というものを嫌う日本では特にそうである。間におくべきあるプロセスとは何か。

②学校は「教師は基本を教え、あとは子どもの学習をサポートする」「子どもは基本を教えられ、あとは自ら学ぶ」ところという中間の過程を置くことである。いわば「教授学習の過程」をバランスよく配することである。いままで「教授学習過程」論は、きれいな字面だけの話としてとらえられていた。それを実質化するのである。最初は、教える場面が多くなるかもしれない。しかし段々に教える場面から、子どもが自ら学ぶ場面を増やしていくようにシステム化するのである。先の図式①②③を順に並べてみよう。以下になる。

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①学校とは「教師からみれば教えるところ」「子どもからみれば教えられるところ」
        ↓               ↓
②学校は「教師は基本を教え、あとは子どもの学習をサポートする」「子どもは基本
を教えられ、あとは自ら学ぶ」ところ
       ↓               ↓
③学校は「子どもが自ら学ぶところ」「それを教師は支援するところ」
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この丁寧なプロセスを考えなかった教育政策「ゆとり教育」などは撤退せざるを得なかったのだと私は考えている。日本では、「ゆとり」さえ与えれば、子どもは自主的に学ぶようになる、というのは甘い観測だったのだ。フィンランド人は、自由を与えられれば「何か工夫して自主的に始める(学び始める)」のだそうだ。そもそもの前提が違う。

具体例で、フィンランドの学校の授業で印象深かったのは、子どもが「空白時間=自分で勉強するように放っておかれる時間」とでも言おうか、教師からすれば「個別指導」の時間なのだが、そういうときにもちゃんと大人しくして自分の勉強をしているのである。分からなくて教師の助けが欲しいときには、静かに挙手して教師のサポートを待つ。小学校一年生のクラスであった。そこまでは観なかったけれども、多分、早く終了した子どもは、次の課題を見つけ自分で学習するのかもしれない。

日本では、そういうものはクラスが崩れる「魔の空白時間」などとよばれている。たえず、教師が指示をはっきりさせ、あまり間を空けずに次々と子どもがやることを明示していかなければならないと考える教師は多い。学校は「教わる」ところと発想しているから、「教わらない」「空白の時間」は、退屈のあまりうろうろ立ち歩いたり、隣の子にちょっかいを出したりし始めるのだと考えられる。

 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=320073

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