人間という種族・・・最後には自論を優先しだし、他人にもその自論が正しいことを強要しようとする。

基本的に私は人間という種族を信頼しない。
それは私の原点であるかと思う。
だから常に批判論を並べることができるし、精神医学や医学全体についても裏の裏までみることができた。
事実を見つめることができたことは良かったが、代償としてというか信頼しないということはあまりたくさん友人もいない。
信用できる人間ならそこそこいると思う。
事実を突き詰め自論を展開できる人間は基本的に信用できる。
しかし信頼するには足りない。
 
なぜならその人たちは最後には自論を優先しだし、他人にもその自論が正しいことを強要しようとするからである。
本当の人間はお互いがお互いを認めながらも、それを相手が受け入れることなど毛頭ないことを知っている。
その間柄を楽しんでいる人間関係と、最後に自論を強要する人間関係にはかなりの差がある。
精神医学に話を戻せば、私はこの精神医学が世界中で行っている事実を知らない人間、認められない人間には興味がないのである。
無理して助けようと思っているわけではないし、その事実は私の自論ではない。
事実は事実であり強要しようという気もさらさらないのである。
本気で助かりたい、脱出したいという人間にしか手は貸さない(しかも部分的にしか貸さない)。
一方あれやこれやと言い訳や自己正当化が出てくる人間はそうあればいいと思う。
そして死んでいけばいい。
実際最後は精神医学に殺されるだけだ。
 
もう少し踏み込んで考えれば精神医学も医学そのものも患者も患者家族も、事実を突き詰めて認識しようとする人は驚くほどに少ない。
つまり私は精神医学は当然のこと、医学も患者も患者家族も全く信用していない。
通常の医師も患者も患者家族も、事実を事実として認識しようとはしない。
そして自論を他人に理解してほしい、他人を自分の自論色に染めたいという発想を抱く。
これが最も私のようなキチガイの信用を損なうことを彼らは知らないようだ。
別に本来私などの信用を得る必要などないし、それぞれ好きにやってもらえばいいことなのだが、こんな私に対してでも理解してほしい、聞いてほしいという人間は後を絶たないのだ。
そしてそういう人間たちに限って言葉を重要視する。
こちらにいわせれば「ぐちぐち言うな、うるせーよ。で、あんたは何をしたの?この世で何をして生きたの?」でしかない。
 
私にとって言葉というのは何一つ信用も信頼もおけるシロモノではない。
それは誰がなんと言おうがどうとでも覆すことができ、どうとでもごまかすことができるシロモノである。
ゴリ押しすればすむシロモノであり、困ったら謝ればすむシロモノである。
もちろん言葉が下手よりは上手い方がいいのかもしれないが、そうすると単なるディベート上手が必ず勝つという構図が生まれる。
そんなものに私は興味もない。
私にとって言葉のアゲアシ取りなど何の意味もないことである。
私にとって、人を信用するに足りるかどうかを判断できる唯一の方法は、その人間がどのような行動をとっているかどうかに帰結する。
それもいかに正直に、いかにリスクフルに、いかに己を明確にして行動するかによってきまる。
それらに比すればどのようなきれいな言葉も、何一つ価値をもたない。
事実に対して忠実に行動できるか、リスクある状況や結果が予想できても恐れずに行動できるか、そもそもその行動や発信をするうえで、おのれを曝して人の批判をかまわずに行動することができるか、私にとっての第一の評価基準はそれである。
 
この世に本質的に精神病者は存在せず人々は人々で行動すればよい。
このことを受け入れることができる人は、この世にはほとんどいるまいと思う。
それで結構、私は誰も私の考えなど理解もできないし、ついてくることもできないとさえ思っている。
それを強要したくもないのである。

参照:https://www.facebook.com/satoru.utsumi/posts/2636679243082479

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