自然なるすべての食材に優劣をつけるという愚行・・・飽食の時代。食べれるだけで十分幸せだという考えもあります。

自然なるすべての食材に優劣をつけるという愚行
 
私はいつも先住民を見習おうとか、古い文化も見習おうといっていますが、現代人は飽食のため何事もあって当たり前だと思っています。
飽食で精神が肥大化するとどうなるかというと、この食事が良いとか悪いとか、この食材がいいとか悪いとか、食材を選べ的な発想になります。
しかし本質的にいうなら、この考えは究極の差別的思考だといえなくもありません。
 
ようするに食べれるだけで十分幸せだという考えです。
その考えに立てば肉がいいとか悪いとか、野菜がいいとか悪いとか、玄米や小麦がいいとか悪いとか、そういう考えはすべて成立せず悪の極みの考え方になります。
バランスが大事だなんて人が多いですけど、その考えに立つなら動物性食品と植物性食品のバランス、社会のバランスも考慮しないとバランス主義にはなりません。
 
では私が自然食的なものや社会毒的なものを提唱するのは、どこに理由があるのでしょうか。
これは結局臨床をやっているうえで必要になってしまったからです。
化学物質や精製されたもの、その他現代的なもの(電磁波や放射能や経皮毒その他)で病気になっていると予測され、それを避けることで病気がよくなる人を多数観察したからということが原点なわけです。
 
私自身は病気になってもいいと思っているし、あまり長生き願望がないのでお酒も飲み、ラーメンやパスタだって食べます。
たしかに糖質総摂取量は注意していますが、極端な糖質制限はしていません。
それよりも美味しいこと、味わい深いこと、作り手のこだわりを感じること、地球環境を歴史的に見た上での考え、などを重視しています。
それが愛の伝道師の本質でもあります。
 
現代畜産のひどさは旧来畜産のひどさとさえ違うので、ヴィーガンの主張はその点はわかるものの、歴史を鑑みないヴィーガンも極端な肉食推奨者も、結局己の世界の中だけに閉じこもっていることに気付いていません。
そういう人たちに限って粘着のようにコメント欄に書きますが、リスクマネージメントとして食材を選ぶのは推奨するものの、一番は食べれるだけで幸せだと思うことだと思います。

参照:https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=729321227556467&id=100014357893194

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