江戸時代のとき、日本の科学技術は世界最高レベルだった

日本の技術はすべて西欧のマネだとよく言われている。実際多くの部分で真似しているが、江戸時代の日本は既に自然に反しない科学では世界最高峰だったらしい。

引用
リンク:江戸の科学技術は世界水準!ものづくり日本の原点を見直そう
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 明治以前の日本に、みなさんはどのようなイメージをもっているでしょう。「文明開化」の前、しかも鎖国で技術や学術の情報が入ってこないから、ヨーロッパなどに比べたら劣っていただろう、と思われているかもしれませんね。しかし、当時の識字率(読み書きができる人の割合)は8割ともいわれ、こんなすごい国は日本以外どこにもありませんでした。当時は和算といった数学も、一般の庶民が日常生活で活用していました。高等数学の問題を、パズル感覚で解くといった文化も日本にはあったくらいです。技術の面でも学問の面でも、決して遅れた国ではなく、むしろ独自に発展を遂げた「進んだ国」だったのです。
 今日は、みなさんに江戸時代に活躍した6人の科学者・技術者をご紹介しようと思っています。同時に、江戸時代の叡智が現在の日本にも息づいていることも知ってもらおう、と考えています。前置きはこれくらいにして、さっそく江戸の科学技術の世界にご案内しましょう。まずは、田中久重(1799~1881)に登場してもらいます。
 田中久重は江戸後期の人。「からくり儀衛門(ぎえもん)」とも呼ばれたからくり技術の名手で、さまざまな製品を世に残しました。からくり仕掛け、なかでもからくり人形はロボット技術のルーツとみることもできますから、日本が世界有数のロボット大国になれたのも、久重たちからくり職人のおかげといえるでしょうね。
 その久重がつくったもののなかで、最も注目されるのが「万年時計」(下の写真)です。七宝や彫金が施された絢爛豪華なこの時計は、「江戸テクノロジー」の最高峰とも称されています。6角柱をしており、6面それぞれに和時計、洋時計、カレンダーなどの機構が埋め込まれています。上の半円のガラスの中はプラネタリウム(天球儀)です。1年に1度ゼンマイを巻けば、ほぼ正確に時を刻み続けるという優れもので、久重は高度な天文学の知識と、優れた技を駆使してつくり上げたのでした。
 驚嘆するのは、和時計の機構です。いまでは世界中どこにいっても時計の針は同じ速さで動きますが、江戸時代の日本は季節によって昼と夜の時間の間隔が違っていました。これを「不定時法」というのですが、日本では1日を昼と夜に分け、それぞれを6等分して1刻(こく)としていました。たとえば、冬は昼よりも夜のほうが長いですよね。すると、夜の1刻は昼の1刻より長くなる。夏なら逆。夏至のころの1刻は昼が165分、夜が75分と2倍以上も差がありました。常に変化する1刻の長さを「自動的」に調節することがどれほど難しいか、みなさんも容易に想像できるでしょう。この難問を、日本の時計職人たちは二丁天符(にちょうてんぶ)のようないくつかの工夫により克服しました。さらに田中は、工夫に工夫を重ねて、和時計、洋時計、プラネタリウムほかすべての機構を連動させることに成功します。ここまでくれば、「あっぱれ!」としか言い様がありません。
 ちなみに、昼と夜の1日2回、おもりの位置を変える“手動式”の和時計は田中以前にもあり、広く普及していました。一方、ヨーロッパ諸国は機械時計が発明されたしばらくのち、宗教や支配層が率先して不定時法から現在の定時法に切り替えました。それまでの自然に合わせた生活のリズムを機械時計に置き換えた。タイムイズマネーの時代、機械に人間が合わせる時代が始まったわけです。
 中国や日本にも西洋式機械時計は入ってきましたが、農業国であるため用をなさず、中国の皇帝らは清朝時計として、徳川家康も江戸城に時計の間をつくり、飾りやおもちゃとして扱うしかありませんでした。ところが、技術の大衆化が始まっていた日本では、当時の最先端技術である機械時計を一部階級のおもちゃとしてではなく、実用の社会が利用できる和時計として普及させていったんです。生活のスピードに合った時の刻み方を維持しつつ、それに基づいた時計が生み出され普及した日本と、機械に合わせて時の刻み方を変えた上に、機械自体は権力者しか持つことがなかった西洋。みなさんは、どちらを「すごい!」と思いますか?
 久重は維新ののち、電信機や電話機の製造する会社を起こし、それは現在の「東芝」につながっていきます。その東芝が所有する田中の万年時計はいま私の勤める国立科学博物館で展示中。ぜひ、一度、実物を目にしてください。

(田中久重つくった万年時計=東芝所有、国立科学博物館にて展示)

鉄砲鍛冶がつくった世界水準の天体望遠鏡
次に登場するのは国友一貫斎だ。歴史好きの人ならピンと来るだろうが、鉄砲の里とも呼ばれる近江国・国友村(滋賀県)の生まれ。一貫斎も鉄砲鍛冶として名をはせた。その彼が、あるときオランダ製の反射望遠鏡に接する機会を得た。家督を息子に譲ったのち、彼は独学でその制作に取り組んだ。そして、1年の後にでき上がったものは……参考にした望遠鏡より2倍も大きく見えるという、極めて優れた性能をもつものだった。

 暦(こよみ)は、私たちの生活に欠かせないものです。さらに、国の行事や祭祀(神や祖先を祭ること)とも関係するため、洋の東西を問わず暦づくりは重要な国家事業とされてきました。ところが、日本では唐の時代につくられた中国の暦を800年もの間、ずっと使い続けてきたのです。そのため、実際の日時との差は2日にもなった、といわれています。2日というのはかなりの差ですから、いろいろ支障が出ていたでしょうね。それを解消する、初めての日本オリジナルの暦が1684年に採用された貞享暦。それを完成させたのが、のちに幕府の天文方となった渋川春海(1639~1715。映画にもなった『 天地明察』の主人公)です。春海は進んだ計算法や観測の手法を学び、自ら天体観測を行った、といいます。数多くの星も発見しました。春海もまた、江戸を代表するサイエンティストの一人といって間違いありません。

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=347010

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