戦時日本における電波兵器開発の記録 原子核研究から殺人光線研究へ

第二次大戦時には各国で新兵器(原子爆弾と電波兵器)の開発が進められていた。

日本でも、1938年に海軍内部の研究者だけで実用的マグネトロンの開発がされていた(橘型マグネトロン・殺人光線構想)が、兵器開発に向けての改良には壁があった。そこで、海軍は比較的研究が進んでいた原子核研究分野から多くの物理学者たちを原子爆弾構想、ひいてはマイクロ波レーダ開発(殺人光線構想)へと巻き込んでいった。

以下、天文月報(2018年3月)より引用。
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 物理学者が加わって行われた海軍技術研究所の電波兵器開発は,すでに述べたように,マイクロ波レーダ開発とA研究の二つに分かれていた.前者へは,東京帝大助教授の熊谷寛夫(1911~77),同院生の霜田光一(1920~),東京帝大物理学科の西川正治研究室を卒業し,海軍技師となった鳩山道夫(1911~93),大阪帝大助教授の伊藤順吉(1914~2009),同助手の山口省太郎(1914~2003)らがいた.一方,島田実験所には,すでに述べてきた,仁科芳雄,菊池正士,萩原雄祐,嵯峨根遼吉,小谷正雄,朝永振一郎(1906~79),宮島龍興の他に,何らかの役割を与えられていた研究者を 含 めれば, 湯 川 秀 樹(1907~81), 渡 瀬 譲(1907~78),山崎文男(1907~81),皆川理(1908~94),伏見康治(1909~2008),永宮健夫(1910~2006),田島英三(1913~98),小林省己,神戸謙次郎(1921~),小田稔(1923~2001),蜂谷謙一(1923~),森永晴彦(1922~)らが加わった.島田実験所での研究に関わった物理学者の比率がレーダ開発に比べて多いことも一つの特徴である.新しい構造による高出力マグネトロン開発に必要な基礎研究は,物理学者の協力なくしては困難であると海軍側が判断したからだろう.

 主要な研究活動の事例では,海軍が開発した橘型マグネトロンの発振理論の解明に,萩原雄祐,小谷正雄,朝永振一郎が成功し,その理論を踏まえて新型のマグネトロンの開発,試作および発振実験に,小田稔,蜂谷謙一を含む渡瀬譲の研究チームが成功した.

 海軍の技術者が困難を抱えていたマグネトロン発振理論の解明や開発に,物理学者が成功できたことは,新兵器開発に物理学者が役立つということを軍部側に知らせたことになった.渡瀬チームの実験成功は,サイパン島の日本軍が陥落し,B29による本土爆撃が現実のものとなると予想され,その対策が模索され始めた時期と重なる.こうした戦況の悪化の中で,物理学者によるマグネトロン研究の成果は,B29に対抗する新兵器開発に期待を持たせたようだ.実際に,この時期以降には島田実験所の人員が増やされることになった.朝永による理論研究は,島田実験所での兵器開発の方針に大きな影響を与えていたと評価することができる.

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=356944

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