【科学技術史】近代以前の技術は徒弟制の中で経験的に研鑽されてきたものであり、大学は無関係であった。

近代科学からの脱却を志向する山本義隆氏が「近代日本150年―科学技術総力戦体制の破綻」という新刊を出された。その中からの気づきを投稿したい。
本書において、山本氏は、改めて「近代科学信仰」の危うさ、特殊性について述べている。とくに注意すべきは、科学と技術はもともと別物であって、「科学理論が技術を牽引する」という「科学技術」は近代に特殊なありようであるということ。技術は決して、理論先行でつくられるものではなかったということ。人類にとって、観念(理論)が最先端の武器であることは確かであるが、自然と直結した技術の領域を、本能や感覚と切り離された「架空観念」が導くと、自然の摂理と切り離された取り返しのつかないものになってしまいかねない。その最たるものが、物理学が生み出したモンスターとしての原子力技術である。

以下、要約・引用

よく「科学技術」とひとくくりにされるが、もともと技術は科学理論にもとづいて形成されてきたわけではないし、科学も技術を目的に研究されてきたわけでもない。実のところ「科学技術」なるものが形成されたのはせいぜいが18世紀以降のことで、それ以前、科学と技術は本質的に異なる営みであった。

もともと世界の理解と説明を目的とする科学は大学アカデミズム内部のものであり、医学を除いて、実践的応用を意図していなかった。他方、梃子や滑車の力学的な解釈がなされる以前から、梃子も滑車も使われていたし、金属の酸化反応を化学式で説明する以前から、製鉄の技術は存在していた。

それが16世紀になると印刷技術と宗教改革の影響もあって、僧侶と大学によるアカデミズムの独占に風穴があき、技術を担ってきた職人たちがその経験を書籍化するようになる。

17世紀にはいると、その影響を受けて、アカデミズムの方も手仕事を厭わずに、実験や計測に乗り出すようになる。ガリレオやフックやボイルたちが、この科学革命の担い手である。

しかし、それでも科学と技術は別々のものであった。

18世紀後半から、蒸気機関が登場するが、この発明にイギリスの大学(オックスフォード、ケンブリッジ)は何も寄与していない。蒸気機関の発明家たちは高等教育とは無縁であった。つまり蒸気機関は、技術者の徒弟制の中で、過去の成果物の観察と改善を通じて、経験的に見出されていったのであって、力学理論によってもたらされたものではないのだ。このことは紡績機械にも当てはまる。

彼らを突き動かしたのは、職人気質であり、特許制度がその補助輪となったことは確かだが、そこに「科学的興味」は影響していない。

ただ蒸気機関で有名なジェームス・ワットは、高等教育は受けていないものの、蒸気機関を改良するには科学的手法で臨んでおり、「科学的な技術者」の最初の人物である。

また18世紀末にボルタ電池が発明され、19世紀には電流の研究から電磁気学が発達した。そしてファラディーが電磁誘導の法則を発見すると、電気エネルギーを運動エネルギーに転換する道が開かれ、そこから電気文明が花開いていくことになった。この電気文明は理論が導いた科学技術であるといえる。

ウォルター・バジェットは「自然を新しい道具のための基礎として利用しようという考えは、初期の人類社会にはなかった。それはヨーロッパに特有な近代的な観念である。」と述べているが、まったくその通りなのである。

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=353012

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