外国人からみた日本語のすばらしさ

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この記事を見てくださっている方はおそらく日本語を母国語としていると思いますが、当たり前のように使っている日本語の素晴らしさを、外国人である私から少し話してみたいと思います。
日本語というと、まず私が感じたのは独自の進化を遂げた漢字文化です。私が日本へ来てまもない頃に感動したのは「魚」辺の漢字です。

春→鰆
冬→鮗(コノシロ)
夏→魚夏(ワカシ)
秋→鰍
魚を食べる文化があり、これらの魚辺がついている文字だけを見ても、四季によって独特の文化がある国だなとわかります。

私は日本語が理解できるようになった時(小学生の時)に日常会話の中で必ず「天気」の要素が入っていることに気づきました。
どこへ行っても、誰と話してもまず「天気」につい触れます。

「今日はいい天気ですね」
「今日あいにくの雨ですね」
「今日はちょっと風が強いですね・・・・
普段の生活の中で、天気について話さない日は無いじゃないでしょうか?

それから時が経ち、今改めて日本の美意識に魅力を感じ、茶道を習い始めてから「なるほど」と思いました。
茶道には「夜咄」(よばなし)という夕暮れ時から行われる茶事があります。
なんといっても大きな特徴は亭主と正客が無言で交わされる手燭の交換です。
夜が長く、体がこわばって気持ちが沈みがちな冬だからこそ、人と人が触れ合う暖かさを馳走とする小さな演出が生きてきます。
これは自然に対して逆らうことなく真っすぐ受け入れているようにも感じます。

そのほかにも、人と人の交わりの場である茶の湯には口切り、炉開き、猪子の祝い、宗旦忌、冬至、初釜、雪見、節分・・・たくさんのイベントがあります。
冬では炉のおかげで亭主と客の間の距離が縮まり、春になって心騒がしい木の芽時には、あらたまった風情のある風炉が気持ちを落ち着かせてくれます。
四季があるからこそ育まれた豊かな文化があり、言葉の使い方一つ一つにも美意識が感じられ、さらに言うと言葉を情緒的に使いわけているではないかなと思います。

例えるなら、他の言語に訳した途端に「味」が薄くなる、要素が削り落とされたような感じです。
言語化できない、しかし、なんとなく感じる部分が情緒的に感じます。

以前に流行しました「アナと雪の女王」の歌詞を日本語と英語を見比べてみればわかります。
英語ではシンプルに表現されていますが、日本語になると味わいが出てきます。
英語だけではなく、風景描写を超えて言葉に表せないニュアンスを中国語に訳した時も同じです。
例えば、松尾芭蕉の句の中でもっとも知られている「古池や蛙飛びこむ水の音」という句。
この静かな世界感をなかなか中国語ではうまく表示できません。

実は、漢字そのものを見てみますと、過去の賢人たちは一つ一つ意味を吟味して取り込んで、日本独自の文化と融合しています。
私も最近知りましたが、「ささの葉」は木ではないので、葉から木を取ることで「笹」が生まれました。
雑草を焼いて、水田と分けたことから「畑」が生まれました。

さらに、
卵かけごはん
生卵a
玉子焼き・・・

たまごを使ったものはたくさんありますが、なぜ漢字が使いわけられているのだろう。
調べてみると、一説には味付け前は「卵」という一文字を使い、調理が進むと「玉子」という2文字を使う。
ちなみに、中国は煮ても焼いても「蛋」1文字で表現します。

他にもたくさん例はありますが、外来の文化を吸収し、「漢字」「ひらがな」「カタカナ」三種類の文字を使う独特な言語文化が生まれました。
それだけ表現の幅が広がり、素晴らしいと感じています。

さて、令和という新しい時代が始まりました
。もしかして、この言葉もどこか日本の美しさが秘められているかもしれません。
日本人は外国語を学ぶと同時に日本語について改めて”原点回帰”して、味わってみてもも良いのではないかと、そんなふうに思います。
中国語はまた別の機会に考察してみたいですが、英語に触れているとロジカルな自分になり、日本語を学ぶと心が落ち着きます(笑)

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参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=360892

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