【シャーマン治療師の記録】疾病は個人的失敗を説明するのを助ける、疾病は配慮を得るために用いられることがある、入院は休暇ともなりうる

<某医師が医師の祖先から学んだこと>
プノンペンから南へ70キロ。かつて内戦で血で血を洗った平原のなかに、ティンスララウという小さな村があります。
90年代、縁あって、私はこの村に毎年のように通っていました。村の中央には小さな池があって、子どもたちがキャアキャアとはしゃぎ声をあげながら水浴びをしています。長らく近代医学が届かなかったこの村にも、伝統的な治療師であるクルッ・クメール(カンボジア語で『民族の先生』の意)がいました。村の長老であるリー先生です。
クルッ・クメールは薬草なども処方しますが、とりわけ「バリー」と呼ばれる精霊の息を吹きかけることが特徴です。リー先生のところに患者がやってくると、先生は家族に次のような指示をします。
「灰をつめたココナッツの殻と5本のろうそく、バナナの皮、そして4センを持ってきなさい」
これらは「白い布切れ」や「精米かす」というようにいろいろと変わりますが、いつも4センだけは同じです。「セン」とはカンボジアの古い通貨単位で、いまは使われることのない僅かな金額です。けれども、精霊から「クルッ・クメールは患者に4セン以上請求してはならない」と戒められているので仕方がないとのこと。結局、患者側が4セン以上の幾らでもよいので感謝の気持ちと家計の事情をかんがみて支払うことになります。まあ、診療報酬の決定権は患者側にあるということですね。
さて、こうして準備が整うと、リー先生は患者に「ブルブル」と唇を震わせながら息を吹きかけます。どんな場合でも、リー先生の治療行為はこの息で完結するようで、とにかく吹きまくっていました。ある時、私はリー先生にこう尋ねてみました。
「それって効いてると思う?」
「さぁて、吹かないよりはましじゃろう」
「じゃあ、ドクター・ファリーと比べたらどう?」
ドクター・ファリーとは、隣村で開業している医師のことです。免許はありませんが、おおむね現代医学に基づく診療をしています。リー先生は、その名前を聞いてニヤニヤ笑いながら言いました。
「わしじゃったら、ファリーのところへ行くのう」
「なんで、リー先生は治療してんの?」私はあきれて聞きました。
「治療しているわけではないんじゃよ」
そう、たしかに彼は「治療」というより、患者はなぜ病気になったのか、それを家族はどう受け止めればよいのかを「解釈」することに力を注いでいました。一応、「治療」も行われるのですが、あまり効能は明らかでなく、リー先生もそのことを承知しているようでした。とくに、現代医学が偏重しがちな「診断」の位置づけはきわめて低いのです。
事実、リー先生の診断についてのボキャブラリーは驚くほど少なく、ほとんどが「ピス」もしくは「スコン」と説明します。痛がっていたら前者、発熱していれば後者です。それに弱い、強いなどの形容詞をつけることでリー先生の診断名になっていたのです。
一方で、リー先生は病因論については豊かな多様性がありました。「水浴嫌いだから」、「牛の世話を怠っているから」、「夕暮れ時に山に入ったから」、「息子が酒好きだから」などなど・・・。病気の原因になるような行動があれば、リー先生は病人だと決めつけて、本人が元気でいても治療を開始してしまうことすらありました。とりわけ、村で発生した社会問題について、長老としてのリー先生は大きな役割をもってました。そして、しばしばこれを健康問題として再構築してしまうのです。
人類学者のフォスターとアンダーソンは、様々な文化圏における社会と疾病の緊張関係を解析して、次のように疾病の社会的役割を整理しています 。
1)疾病は耐えがたい圧力からの解放を可能にする
2)疾病は個人的失敗を説明するのを助ける
3)疾病は配慮を得るために用いられることがある
4)入院は休暇ともなりうる
5)疾病は社会統制の装置として用いられることがある
6)疾病は罪の感情を償うための装置となりうる
こうした疾病の側面について、現代医学が配慮することは少ないでしょう。けれども、伝統的治療師は、疾病の社会的役割について注目して、意図的に利用することがあるのです。たとえば、ある人が村で失敗し、村で無視されるという社会的状況におかれているとき、それをとりあえず身体的疾病におきかえ、その治癒の過程を村人との和解の過程としたりします。伝統医療は疾病を普遍的に捉えるのではなく、文化的文脈のなかで捉えることがあるんですね。手段としての疾病、手段としての健康が存在しうるということです。
もちろん、ここで私は医療の先祖がえりを奨励するつもりはありません。疾病を手段とする伝統医療と、疾病の解消こそを目的とする現代医学には本質的な差異があります。ただ、人間のもつ関係性を削り落とし、疾病もまた単体の故障として解釈してきたことへの反省が、いま現代医学に突きつけられていることは思い返しておきたいところです。
あるとき、リー先生に「その息を吹けるようになりたい。弟子にしてくれ」と頼んでみたことがありました。先生は笑って「5分で伝授できる」と言いました。しかし続けて、「ただしじゃ、お前が少しでもこれから不誠実なことをしおったら、バリーの天罰が下るぞい。それだけではないぞ。教えたわしにも相応の報いがあるんじゃ。お前にその覚悟があるかのう」と言ったのでした。もちろん、そんな覚悟など毛頭なかったので、お断りしましたが・・・。
なるほど、クルッ・クメールが信頼されている理由が少しわかる気がしました。彼らは、疾病を手段として使いこなす権力を誠実さで保証しなければならないのです。その孤高の誠実さゆえに、カンボジアの農村ではクルッ・クメールが信頼され、これからも必要とされ続けてゆくのでしょう。
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カザフスタンの霊媒師、アイナ先生の診察室前には、大勢の患者たちが順番を待っています。多いのは、家庭や人生の悩みを打ち明ける相談者たち。あるいは、慢性疼痛や掻痒で苦しむ患者たち・・・。
アイナ先生が手におえないと判断したときには、現代医学の病院に紹介状を書いて送ってしまうことも少なくありません。実際、あっさりと手放します。カザフスタンでは、伝統医療と現代医学とのあいだに良好な連携が育っているんでしょうね。
さて、アイナ先生の診察風景です。
患者を診察室に招き入れると、まずは相談事の内容にじっくり耳を傾けます。とにかくじっくり聞く。やがて患者は泣いたり、笑ったり・・・。正直、この問診で治療の大半は終わったと言えるかもしれません。あと、日本の診察室と異なるのは、長椅子に2人並んで座って問診が行われる点ですね。それはまるで、公園のベンチで年寄りが孫の悩み事に耳を傾けているようでもありました。
アイナ先生は、とても不思議な感じのする女性です。たくさんのしわが顔に刻まれていますが、それは衰えを感じさせるものではなく、むしろ経験に裏打ちされた温もりを強調していました。ムスリム女性らしく白いスカーフを被っていて、聖職者のように金のアラベスクが刺繍された紅のベストを身に着けています。そこに虚栄のかけらもなく、本当に良く似合っていました。そうして、うつむき加減の口元から、重みのある言葉が、こぼれ出すのです。
問診が終わると、アイナ先生は患者を直立させ、手を添えて前後に揺らしはじめます。耳元で呪文が唱えられ、数分もすれば患者は力が抜け、彼女の腕の中で気を失ったようになってしまいます。それから彼女は、まるでスキャンするかのように患者に手をかざし、体の中を探っていきます。そして、5分ぐらいが経過した頃、ようやく彼女は患者を解放します。背中にポンと気合を入れて蘇らせるのです。
ふたたび2人は長椅子に戻り、人生相談の続きがはじまります。先程のスキャンの結果を引用しながらアイナ先生はアドバイスをしているのです。
「手をかざしながらチェックしてますね。何を診ているんですか?」
アイナ先生に、こう質問してみたことがあります。すると彼女は「ビオトック」と答えました。このカザフ語を直訳すれば”生命の電気”という意味になります。まあ、僕たちに馴染みのある日本語に置き換えるなら、”気”という言葉が適切でしょう。
「”気”を手で感じるのですか?」
「手を通じて心で感じるんじゃよ」
「”気”を注入して治したりもできるんですか?」
アイナ先生は「そりゃ無理じゃねぇ」と笑って、「”気”は誰にでもあるリズムさね。それをどうこうしようとするのは邪道じゃよ」と・・・、今度は真面目な顔になって言いました。
「人生には、”気”に満ちている時期もあれば、”気”が消耗してしまっている時期もあるんじゃ。それは、そのままに受け入れるしかないからね」
少し意外な気がしました。霊媒師とは、もっと患者の精神を操るような力を標榜していると考えていたからです。続けて、僕はこう質問してみました。
「では、”気”が消耗している患者に対して、医療者は何をしてあげられるんでしょう?」
「下手にあがいても仕方のないことさ。いつも”気”に満ちあふれた人間などおらんじゃろう。じっと待ってあげなされ。どんな人生にも辛いときはあるもんじゃ。ただ、重い荷物も背負い方によっては軽く感じられるように、つらい悩みでも考え方次第で少しは楽になれるさねぇ。その背負い方を教えるのが霊媒師の役目なんじゃよ」
たしかに・・・ もうひとつ、大切な質問。
「患者として求められる姿勢ってのはありますか?」
アイナ先生は、少し考え込んでからこう答えてくれました。
「ないさ。患者は患者じゃね。ただ、”気”によって、人生が山あり谷ありってことを受け入れられる患者は立ち治りが早いねぇ。人生、ついてない時もある。肝心なことはさね。そんな人生を疑わぬこと、飽きぬこと・・・」
アイナ先生の診察に付き合いながら、僕は生命のリズムを見たような気がしました。
もちろん、”気”を科学的に証明することは不可能です。でも、落ち着いて見まわせば、多くの抽象的な力が僕たちに作用していることに気がつきます。友情、信頼、尊敬、憎悪・・・。あるいは、”気”とは、こうした概念の総体なのかもしれません。
そこにありながら、探しても見つからないもの。こんなものを認めることが、現代人はいかに苦手になってしまっていることか。そして、友情を信じられない者に友情が芽生えぬように、幸福を信じぬ者に幸福がやってこないように、”気”を認めぬ現代人は、どんどん生命のリズムを喪失しつつあるかのようです。
別れ際、アイナ先生はこんな言葉を僕に寄せてくれました。
「医療人を志しながらも、”気”を軽んじてはならんよ。人には”気”があるんじゃ。それを忘れて、患者を機械と思ったら、もうおしまいじゃね」
人生には押すべきときがあり、引くべきときがあります。カザフスタンの伝統的治療師が僕に残した宿題とは、あるいは加速しつづける「生命の機械化」に対して鳴らされた、人類への警鐘だったのかもしれません。
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文:高山義浩 2019年12月26日 ·
シャーマン治療師の記録 
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===蛇足
コロナウイルスには治療薬はありません。
311で失われた命を引き戻せる科学が無いのと同じです。
それは縄文時代でも今でも同じ星空があるこの島にいるヒトの定めです。
ですが、全世界のお母さんはシャーマンであり、全国のお父さんはそれを守る王子様です。
昨夜「恋続」で町医者が語った通りだし、人の一生を散歩に例えるならそれは始まりがあり終わりがあり、道を自分で選べば後悔が無い。 自分で山を選んだつもりで谷に嵌る時もあるだろうが、青空の下で不意に足を取られて痛みに津波に疫病に大恐慌が来ても、気を病まないで大切なことを正しく続ければ、最期まで楽しく笑顔でいられる。
天国も地獄もどこか遠いカレンダーにあるのではない。
今日のあなたの大切な人とあなたが笑顔かどうかだけである。

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