今西錦冶の自然観

今西氏の独自の進化論を生んだ、その根底には氏の独自の自然観がある。それは生物と環境を一つのものとしてみるという自然観である。(生物の世界より抜粋)

>環境とはそこで生物が生活する世界であり、生活の場である。しかしそれは単に生活空間といったような物理的な意味のものでなくて、生物の立場から言えばそれは生物自身が支配している生物自身の延長である。もちろんこう言ったからと言って環境は生物が自由に作り自由に変え得るものではないのである。
>その環境は我々の体の中にまで入り込んできているばかりなくて、実は我々の身体さえ自由に作り自由に変えることができないという点では、これを環境の延長とみなすこともできるであろう。
生物の中に環境的性質が存在し、環境の中に生物的性質が存在するということは生物と環境とが別々の存在ではなくて、もとは一つのものから分化発展した、一つの体系に属していることを意味する。

>およそ世界で相似た者同士がお互いに孤独に存在しないで、ある距離内に見いだされるということには、それらの相似た者同士が全然無関係に、別々に作り出されたのではなくて、もとは一つのものから生成発展したというこの世界の性格の反映が感ぜられるのであり、
>生活内容を同じゅうするということは環境的に見れば同じ環境を要求を要求しているということである。それでもし同一の環境条件が連続している場合を考えたならば、一つの環境を共有するということが許されないとしても、同じ生活内容を持つものが相集まってきて、その連続した環境をすみ分けるということは、当然予想されていいことではあるまいか。それは同じ生活内容を持った生物が環境に働きかけた主体的行動の当然の帰結であるとみなされはしないだろうか。

>もしも傍らに動物が生活内容を異にしたものであったならば、お互いの行動が何らかの衝突を生じないにも限らないが、それが生活内容を同じゅうした同種の個体である場合には、お互いの行動には摩擦が起こらない。
>だから生物に元来個体保存的現状維持的な傾向があることを認めるならば、生物がいたずらな摩擦を避け、衝突を嫌って摩擦や衝突の起こらぬ状態を求める結果が必然的の同種の集まりを作らせたとも考えられる。したがって特にお互いが誘引しあうことを仮定しなくとも、同種の個体が集まっているのは、その共同生活のうちに彼らの最も安定し、したがって保証された生活が見いだされるからである。

>植物と動物、寄主と寄生虫、哺乳類と昆虫といっても今は必ずしも相対立したものではないが、もしそれらがすべて一つのものから文化発展したものであるならば、その進化の途上でいつかこのような社会的対立の状態を経過してきたものに違いない。
>もとをただせば一つのものから分化発展したいろいろな生物が、この地球上を、あるいはその一地域なり一局地なりを棲み分けることによって、お互いにお互いの生活を成り立たせているということだけを取り上げても、そこに(生物)共同体という言葉を使う意味が充分に含まれていると思う。

抜粋以上

西洋世界では、自然の征服や弱肉強食の世界観を生み出したが、それに対して今西の自然観は実に東洋的である。
この環境と生物は一体であるという自然観から、必然的に進化の主体は個体ではなく種であるということが導き出される。また進化の原理を棲み分けに置いていることも特徴的である。、

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=352964

シェアする

フォローする