表に出始めた明治維新の真実

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表に出始めた明治維新の真実(5)

「つづき」
明治維新の金の出どころ~ 福井松平家
鎖国令というのは出たことはないのですが、貿易制限は実在しました。日米修好通商条約の発効により貿易自由化の方向へ進みだしたころ、素早く稼いだのが福井松平家です。トーマスグラバーの入れ知恵により、特産品である絹織物の量産体制を整備します。作りさえすればグラバー商会が売りさばくのですが、このやり方は今日でも続いています。宇宙船や戦闘機をつくるのにカーボンファイバーが使われますが、あれを織っているのが福井の普段、着物の生地をつくっている業者です。但しつくるだけで流通を押さえられています。所謂、商社金融方式で、原材料仕入れも製品売掛債権の回収も全て資金繰りの面倒をみてもらう代わりに、自社営業を禁じられています。
さて、越前和紙で藩札をつくり、桑を育てる農家や養蚕業者、絹を扱う職人や織り機をつくる職人など、各事業を整備するのに必要な資金は文字通り紙切れに与えた信用で築きます。こうして他家に先駆け事実上の独占貿易の利を得た福井松平家は薩長など他家を圧倒する財力をもつに至り、討幕資金の提供者となったばかりでなく、新政府の貨幣もつくり財政を支えます。 
特産品の絹製品の輸出により外貨であるポンドを手にしましたので、グラバー商会から英国製の武器を購入する決済に使うことができます。一方、新政府が越前和紙でこれがお金なんですよ、と勝手に紙切れに信用を与えることで、それを信用した人々の間で貨幣として流通することで国内の財政を成立させることはできますが、新政府軍が戊辰戦争のために大量購入した元込め式新型ライフル・エンフィールド銃の代金はやはりポンドで用意しないといけません。越前和紙を印刷しただけでは売ってくれません。この外貨資金の提供者が明治維新の最大のスポンサーであり黒幕ということになります。

明治維新の大まかな流れ
主な登場人物がある程度そろったところで、全体の流れを押さえていきます。
鳥羽伏見の戦いが明治元年とされます。
黒船来航はその15年前です。
阿片戦争は更にその13年前に始まり2年で勝負がついています。
黒船来航を機に、水戸徳川によって海防の建白書が奏上されます。海の守りを固めましょうという当たり前の話ですが、この建白書が討幕プラン実行開始の号砲となります。

(黒船  元年) 世界大戦クリミア戦争勃発 露仏は総動員で日本
                 どころではなし
(黒船 +2年) 長崎海軍伝習所開設 討幕派集結、卒業生が各地
                 でテロ活動を展開
(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる 討幕派へ大打撃
(黒船 +6年) 安政の大獄の一環として討幕派拠点、長崎海軍伝
                 習所閉鎖
(黒船 +7年) 桜田門外の変 討幕派慶喜を将軍に推す勢力が
                  反対派をほぼ排除
(黒船+10年) 薩英戦争、島津家領内が英軍をバックに討幕戦へと
                  意志統一
         幕府が賠償金建替、予算を得た英東洋艦隊が日本を 
                 うろつく
(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕
                 派の一大拠点
         卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任
                 者の勝海舟罷免
         高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬関戦争により
                 英軍が長州領一部占領
         グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を
                 英軍が長州へ送る

         第一次長州征伐

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死
                 翌年解兵
(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽
                 伏見の戦い勃発
(黒船+2年)  長崎海軍伝習所に討幕派集結

長崎海軍伝習所には、勝海舟、榎本武揚をはじめ、全国から討幕派のエリートが集まります。長崎の地には坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、トーマス・グラバーら、明治維新の役者たちが一同に会します。討幕派が集まったという一面と、集まってから討幕派に加わったという一面もあり、この辺りは微妙です。結果的には集まった人々が討幕派になっています。伝習所といっても遠洋航海、海戦、造船から砲や火薬の製造、医学に航海術、海軍をつくるのに必要なあらゆることを実地でやるのですが、遠隔地との暗号による交信など、討幕活動にそのまま応用できるもの一切を含んでいます。教官はオランダが誇る重鎮がズラリ数十人。総力を挙げて最高レベルの人材を投入してきました。インドシナでは現地食糧を作らさずに自分たちの貿易の稼ぎになる工芸作物ばかりを作らせ飢餓輸出による餓死者が続出しても放置、反乱が起これば武力で鎮圧するという人々が日本人には親切に海軍の作り方を教えてくれる、わけはありません。そんな甘い連中ではありません。これは絶対をつけても。

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=351818

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