科学といういい加減さ・・・科学論者も古典論者も、哲学的な人も論理性ばかりの人も、みな同じ穴のムジナであることは容易に観察できる

科学といういい加減さ
 
既存の理論、御用の科学、インチキという言葉ばかりいうあの手の人たちには、いつも共通の特徴があることは、以前に述べた。
往々にして科学=論理性、科学=再現性となるが、実は科学がなんなのか、ちゃんと知らないのだと思う。
 
科学に種類があるのは調べてもらうとして、そのような人たちの論法はだいたい決まっている。
まずは特定の人やものに対して、カルトだとか詐欺師だとか嘘つきだとかレッテル張りする。
いや、科学も詐欺だがとすぐに思ってしまう。
他に自分を優遇するが相手に気付かせず、科学と装うことも多い。
科学の定義に照らし合わせれば、起こった事象と現実を直視するのが重要だが、科学と論理と根拠を主張する、固いだけの男性脳的人々は、これを指摘されたときほどに話をそらす。
 
私は多数の人、複数のジャンルを診察しないといけず、医原病をよく扱うため、広くアンテナをはって対応しないといけないし、いろんな不思議な事案を教えてもらったり、分析しないといけない。
ここで科学論者はフリーズする。
 
例えばある癌の人がいたとして、玄米菜食で治ったとしよう。
そのような人に何十人も会ったと思う。
これを糖質制限食者がみた瞬間に、偶然、ブラセボ、砂糖やジャンクやめたからくらいしか言えなくなる。
逆もあるだろうが。
しかしその玄米菜食主義者は、玄米菜食者で病気になったり、癌が治らなかったり悪化したりすると、玄米菜食の影響は無視して、心がけとかストレスとかのせいにする。
 
玄米菜食で悪化している人もまた多いが、人とは現実をみない生き物だ。
こうやって見ていくと科学論者も古典論者も、哲学的な人も論理性ばかりの人も、みな同じ穴のムジナであることは容易に観察できる。
しかもこれはまだ食事療法の勉強してるからましだが、大衆型の場合ほぼ手をつけれない。
 
なぜあなカスという本を書いたかというと、人間ってここから抜け出せている人がいないからだ。
これは人間である限りおそらく無理なので、もちろん私にも当てはまる。
 
しかし、そんなカスな私でも一つ心がけていることがある。
それはあらゆる価値観への許容である。
 
たとえあなたが一般的に変でも、私はあなたを牢屋にはいれないし、縛り付けもしないし、かといって同意もしないし、ほめたりもしない。
許容とはそうだねと同意することとはまったく違うのだ。
許容とはその存在を放置したり、好きにしてもらって結構という心理である。
 
まだ私自身が万物に対して、そうなれていないが、私の中にある反発は科学であれ人間であれ、許容が「よりない」分野へのものなのだろう。
最近、また私も変化してきたが、ここに意識があるので西洋医学をやりたいものは、やればいいと思うのである。
西洋医学を批判することはその特徴も無視して、万能かのように装われているからで、西洋医学のすべては否定していない。
いや、それさえどうでもいいのだ。
 
私がここで述べたいのは、いつも通り人間がもたらす正義主張の愚かさと、そうしてしまう人間の根元的理由を、あなた方が考えてみることだ。
本を読もうがネットサーフィンしようが、それでは手に入らないものを。

https://www.facebook.com/satoru.utsumi/posts/2003061716444238

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