未来の世界で「日本人だけがリアルな人類として生き残ることができる」理由

「本来の日本人」という縄文体質と、現状のシステム社会の軋轢が生み出す今日の日本社会に於ける活力低下・無気力・絶望。それは、世界的に見ても異常である。しかしそれは、権威や権力といった与えられたシステムに人間が合わせることを、心底から拒絶する日本民族ならではの可能性なのだ。

「indeep」さんより抜粋・引用 リンク

◆全世界が「そのような方向」に進んでいる中だからこそ
昨日、アメリカの方のブログを見ていましたら、「未来が私たち人類を必要としている理由」というタイトルの記事がありました。

内容は、人工知能の支配による「機械的人間社会」的未来への、まあ警鐘というのか、そういう未来は良くないと。私たち人類は、そういう機械的な方向ではなく、自然の法と良心に導かれるような進化の方向に進まなければならない、というような話です。

私自身もそのように思っていますが、このような主張自体は、いろいろなところで繰り返し言われていることで、本来は特筆するべきものでもないのですが、しかし、読んでいて、「ふと」ある統計を思い出しまして、

人類の正しい進化の本質を持っている、あるいは知っているのは日本人だけなのかなあ……と思ったのです。これだけでは何の話だかわからないと思いますが、それほど複雑な話ではないのです。統計上の「ある事実」が存在しているというだけの話なのです。

何の統計かといいますと、「世界価値観調査」というものがありまして、これは Wikipedia の説明では以下のようなものです。

◇世界価値観調査 – Wikipedia◇
世界価値観調査(World Values Survey)は世界の異なる国の人々の社会文化的、道徳的、宗教的、政治的価値観を調査するため、社会科学者によって現在行われている国際プロジェクトである。

◆日本人は権力が異常に嫌いな民族
その 2010年版の調査項目の中に、「権威や権力が今より尊重される将来が来ることを《良いこと》と考えますか?」という質問項目があるのです。つまり、現状の社会より、さらに「権威」と「権力」が増大する社会になってほしいかどうかという質問です。

これはですね、数字ではなく、ウェブサイトにありました「グラフ」リンクで見ていただくのがいいかと思います。日本があまりにも突出していることが「見える」ものです。

60カ国に対しておこなった大調査ですので、グラフがちょっと大きいですが、一番上を見ればいいだけですから。このダントツぶりは、すごいと思いませんか?日本は、「権威や権力が今より尊重される将来が来ること」について、

・良いと思う人 → 4.7 %
・悪いと思う人 → 76.1 %

という、他のどんな国とも比較にならないほど、「権威と権力が嫌い」なのです。2位は、「スウェーデンの憂鬱」について書きましたこちらの記事で取り上げさせていただきましたスウェーデンですが、それでも、

・良いと思う人 → 22.5 %
・悪いと思う人 → 50.2 %

と比較にならない差です。その後に、台湾、韓国と続きますが、日本とはあまりにも数値がちがいます。とにかく、地球の全人類の中で、日本人は異常なほど「権威が嫌い」なのです。それが本当のところのようなのです。

◆日本人がおかしくなっている理由
しかし、それが本来なのに、現実の社会や生活がそうなっていない。だから、精神もシステムも知性もおかしくなる。昨日、テレビ朝日の報道で以下のようなものがありました。

◇「国や社会を変えられる」と思う若者は5人に1人 テレビ朝日 2019/12/03

「自分で国や社会を変えられる」と思う日本の若者は5人に1人しかおらず、国や社会に対する意識の低さが浮き彫りになりました。

日本財団が日本やアメリカ、イギリス、中国、韓国やインドなど9カ国の17歳から19歳、それぞれ1000人を対象にした調査によりますと、「自分で国や社会を変えられる」と考える日本の若者は18.3%で、残り8カ国で最も低い韓国の半数以下となっています。

さらに、「自分の国の将来についてどう思うか」という質問に「良くなる」と答えた日本の若者は9.6%で、9カ国中最低となり、トップの中国の10分の1にとどまりました。

◆《本来の日本人の資質》と日本の社会システムの間にある軋轢
どうして、こういうことになったのかということもまた、先ほどの統計からわかるのです。

すなわち、日本の若者たちが絶望しているのは、「自分たちの中にある《本来の日本人の資質》と、実際の日本の社会のシステムの間に軋轢がありすぎる」からです。第二次大戦後に西洋人主導で進められた現在の日本社会のスタイルは、私たちに合っていない。権威と権力が大っ嫌いな私たちには合っていない。

少なくとも、戦前は「権威と権力が大っ嫌い」という考え方に則って日本人が生きていたことは、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』などにも数多く出てきます。たとえば、19世紀には西洋では「権威の頂点」だった「宗教」というものに対しても日本人は以下のようなものでした。

『リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。日本では僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。

仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。』

◆違いすぎる日本人
いずれにしても、先ほどの権威に関しての統計は、「私たち日本人がいかに他の民族とちがうか」ということを強く示していることはおわかりになると思います。大事なことは「どちらがすぐれている」とか「すぐれていない」とかの「比較の問題ではない」ということで、これが最も大事なことです。

なぜなら「比較」というのは「同じ概念同士の延長線上にあるもの」だからです。そうではなく、「ちがう」のです。キュウリとコペンハーゲンを比較することができないように、まったくの「異物」は比較できません。本来の日本人はちがいすぎる。

参照:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=351704

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