<エディプスコンプレックス>自分の父親を象徴する「右翼」に反抗している「左翼」「リベラル」を見ると、人は自分の中で潜在的に押し殺してきた父への憎悪や反抗心を触発される。 その人からは、おそらく「左翼」「リベラル」は、処理しきれない愛憎の葛藤に直面させられる嫌なものに見える

<エディプスコンプレックス>
自分の父親を象徴する「右翼」に反抗している「左翼」「リベラル」を見ると、人は自分の中で潜在的に押し殺してきた父への憎悪や反抗心を触発される。
その人からは、おそらく「左翼」「リベラル」は、処理しきれない愛憎の葛藤に直面させられる嫌なものに見える。

日常生活の中では比較的穏やかな状態であったとしても、あるトリガー(引き金)になるものを見た途端に、理性を失い、憎悪と攻撃心の塊になってしまう。その人はアイデンティティの崩壊を引き起こす「敵」に抗して、自身を保とうとするからだ。

「人と人は分かりあわないし、対立する」
エビデンスペースで論理・理性的に対話すれば集合知によって最適解が得られるはずという「科学・民主主義」の考えかたは一理はある。 だが、facebookはそれに適したシステムではない。「主体」というのは他者の存在を前にして、常に不完全で不安定であり、それゆえに「理性的な対話」など信頼関係なしに成立はしないから幻想でしかない。

道との遭遇ならぬ「ネトウヨ」とのfacebookでの対話には、「主体」が不安定であり、アイデンティティが失われた「バーチャルアイデンティティ」との対話だからこそ、実体のないそれを守ることもそもそも不可能であり、対話は強い「情動」に駆動され、理性も失い、他者の深刻な被害のことも考えられなくなって破綻と言う結論しか産まない。

「世界第2位」の称号をうしなって…。
現在は、理性的な判断よりもアイデンティティや情動こそが、世論形成で人々に影響するようになった時代であると分析されている。それを「アイデンティティ政治」と呼んだり、「ポスト・トゥルース」と呼んだりする。

ネトウヨだけではない。様々な立場の人が自身のアイデンティティを脅かされては相手を攻撃する、という感情的な言い合いを続けている。

ネットを見ていると、誰かが「萌え絵」などを批判すると、アニメーションのキャラクターなどに愛着を持つ人からの猛反発が来るなどといったこと起きることがある。これらは理性的な利害調整のための議論だけではなく、批判者も含めた双方の主体の不安定さを巡る非和解的な闘争でもあるだろう。どうして急速にこのような状態になったのだろうか。

一番大きいのは、アイデンティティが無いアバターによるネットとSNSでのコミュニケ0ションであろう。
加えて、ひょっとすると「主体」が不安定になる人々が増えたことである。

1980年代まで、日本は世界に冠たる経済大国、GDPは2位だった。アジアのトップランナーを自負し、科学技術や工業製品で世界に知られた国だった。これらが、ナショナル・アイデンティティとして機能していたことは、想像に難くないだろう。しかし長らく低迷する経済と少子高齢化などにより、それらを誇ることは困難になってきている。

さらに、バブル崩壊と1990年代以降の構造不況の中で、新自由主義的な政策に移行していったことで、会社共同体なども次々と崩壊している。リストラが断行され、非正規雇用などが拡大した。自身を支えてきたものが失われ、不安定化する。他者や世界との愛着関係が薄くなり「主体」は常に不安定さを抱えている状態になっているのではないか。

だからこそ、その人がかろうじてアイデンティティを支えるよすがにしている「文化」を攻撃した時に、対話にもならず議論の余地もない、感情的な反応が生じてしまうのではないだろうか。その文化は、オタク文化であることも、ロリコン文化であることも、伝統文化であることも、皇室であることもあるだろう。

リベラルこそが、他者を「排除」している?
理性的で論理的な対話をするには、それなりの教養や訓練が必要であるし、何よりも「主体」がそれなりに安定して健康である必要がある。討議空間への参入条件をそのように設定すれば、多くの人が排除されるだろう。それはそれで、残酷な切り捨てなのではないか。

ネットやSNSの隆盛は、理性的に議論するテクニックをもつ人だけでない、より多くの人たちが声を上げられるようになったという点では、民主主義の進歩だとも考えられる。だが、多くの人が感じているように、これは不毛であり、民主主義の危機である。
ネットには多種多様な意見があり、そのうちの一部は気に食わないに決まっている。あるものはトリガーになる。誰のトリガーにもならないような発言しかできなければむしろ「不自由」で窮屈だ。しかし、主体が不安定な人を煽って対立を激化し、相互に尊厳を破壊しあっても、全体の幸福と尊厳がただ減るだけである。

こうした状況に対して「多様性を認め、穏やかにお互いの尊厳を尊重し合いながら議論すべきだ」などと優等生的な意見を言いたいところなのだが、「ネトウヨ」のその人のように、過去の経験などをきっかけに主体が不安定な人々のことを考えると、それでは解決にならないという結果しかfacebookには産まれていない。誰かに何かを言われたぐらいでそうできるなら、解決は容易いのだが、現にそうではない。

長期的には、安定した愛着と尊厳を尊重するような社会に変わっていくことが、解決になるのだとは思うが、すぐにはそうはならないし、なったとしても現に不安定な人々は相手をブロックすることに逃げてしまうので救われない。

だから、彼らのような不安定な主体を含みこんだ「対話」「議論」「民主主義」にはそれに適したシステムが必要であるし、そのための技術的な基盤として設計されていないfacebookはその用途には向いていない。
それだげが現在解る現実である。

フェイスブックの担当者は2日、「われわれはイデオロギーに関係なく、暴力や憎悪を助長したり関連行動に従事する個人や組織の利用を常に禁じてきた」との発表文を出した。

Base: フェイスブック、極右思想の活動家の利用禁止-憎悪あおり暴力助長 – Bloomberg – <https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-03/PQWR1Y6TTDS001>

参照:https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2726262757457766&set=a.193322607418473&type=3&theater

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