特攻隊だった90歳代の兄弟が「最後の証言」・・・時代に迎合を悔恨「なぜ死ぬ覚悟で戦争に反対しなかったか」

太平洋戦争中に学徒出陣し、特攻隊員になった兄弟が9日、東京都新宿区の早稲田大で講演した。岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)。今はそれぞれ東京、滋賀と離れて暮らすが、どうしても若い世代に「最後の言葉」を伝えたいと顔をそろえた。これまでそれぞれ講演する機会はあったが、兄弟そろって話すのは最初で最後かもしれない。2人が伝えたかったメッセージとは――。

2人は10人兄弟の五男、六男として熊本市で生まれた。忠正さんは慶応大、忠熊さんは京都帝国大(現京都大)に進み、ともに在学中の1943年12月に旧海軍に入隊した。戦況が悪化の一途をたどる中、忠正さんは人間魚雷「回天」と人間機雷「伏龍」の隊員となり、忠熊さんは爆薬を積んだモーターボートで敵船に体当たりする「震洋」の艇隊長になった。

「2人とも生きては帰れないだろう」。入隊前、兄弟で先祖の墓参りに行ったとき、道中の汽車でそんな会話を交わしたという。実際に軍隊生活は死と隣り合わせだった。忠熊さんは海軍徴用船に乗船中に米軍に攻撃され、海に放り出されて約3時間漂流した。忠正さんも「伏龍」の訓練で海底に潜水する際に酸欠で気を失った。

 辛くも2人は生き残ったが、多くの若者が特攻隊員として命を散らし、遺書が残されている。「遺書には勇ましい言葉が書いてある。『私は喜んで死ぬ』と書いてあるのを読んで感激する人もいるはずです。だけど、私は、待ってくださいと言いたい」。忠正さんは会場にこう呼びかけた。

 この話をしようと思ったのは娘の直子さん(60)との会話がきっかけだった。直子さんは特攻隊の記録を展示する記念館で隊員の遺書を読んだ際、「あの方たちは教育を受けてああいう気持ちで死んでいったんだ」と思ったという。それを聞いて忠正さんは、当時検閲があったことや、家族を悲しませまいと自分を奮い立たせる隊員の心境を話して聞かせたという。すると、その「実態」を講演で話すべきだと直子さんから促されたという。

 忠正さんは、命を落とした隊員の無念を代弁するように語気を強めて会場に訴えた。「本当は死にたくない。でも(死ぬのが)嫌なのに殺されたと聞いたら家族も悲しむから、喜んで死んだと思ってもらおうと。もう一つは自分を励まさなきゃやれない。決して犬死にじゃないと自分を奮い立たせて慰める気持ちの表れなんです。そういうことを理解してやらないといけない。つらいんですよ、本人は……」

 忠正さん自身、当時、内心は戦争には批判的だった。海軍で上官から毎日のように暴力を振るわれ逃げ出したい一心で特攻隊員に志願した。「もし遺書を書くとすれば自分も同じことを書いていた」と打ち明けた。

 最後に、若者に何を伝えたいかと司会者に聞かれた2人の口から出てきたのは後悔の言葉だった。忠正さんは「この戦争は間違っているとうすうすながら分かっていたにもかかわらず、沈黙して特攻隊員にまでなった。死ぬ覚悟をしてるのに、なぜ死ぬ覚悟でこの戦争に反対しなかったのか。時代に迎合してしまった。私のまねをしちゃいけないよ、と今の若い人に伝えたい」。忠熊さんも「戦争を二度と繰り返さないためにはどうしたらいいのか、特に青年、学生がどうするかによって未来が変わる。そのためには歴史に学んでほしい」と。

講演会は戦場体験者らでつくる「不戦兵士・市民の会」が主催した。約250人が会場を埋め尽くし、立ち見も出た。講演後、慶応大4年の金澤彰太郎さん(22)は「後輩として心に刻みました」と忠正さんに握手を求めた。「兵隊に行った人の話を生で聞いたのは初めて。その時の気持ちが聞けて良かった」。早稲田大1年の山田凪紗(なぎさ)さん(19)は「時代の流れに迎合した、という言葉が心に刺さった。まだ知識がないから、未熟だからと声を上げるのをためらうことがある。声を上げて行動する大切さを実感しました」と話した

特攻兵器
爆薬を携えて敵に体当たりする特別攻撃(特攻)のために旧日本軍が開発した兵器。太平洋戦争末期、戦況悪化とともに使われるようになった。人間魚雷「回天」には「戦局を逆転する」という願いが込められ、隊員が乗り込んで操縦して敵船に体当たりした。人間機雷「伏龍」は潜水服を着た兵士が海底で待ち伏せし、竹の棒に取り付けた機雷で敵船を突いて自爆した。「震洋」は船首に爆薬を積んで敵船に体当たりする1~2人乗りの木製のモーターボート。「回天」は出撃などで戦死した搭乗員が87人、訓練時の事故で殉職した搭乗員が15人いた。

参照:https://mainichi.jp/articles/20191122/k00/00m/040/143000c

シェアする

フォローする