3.11を忘れるわけにはいかない・・・被曝に関して国会議員で一番熱心に取り組んだのは山本太郎だ。中核派デマや風評被害を煽るなど言っている連中。 正直、原子力ヤクザに洗脳されている。

僕もまた、かれ、山本太郎とおなじように、2011年3月11日の東日本大震災にともなう福島第一原子力発電所の事故に、大きな衝撃を受けた多くの人間のひとりだった。

事故以前から原発についてはその危険性を認識していたつもりではあったけれど、巨大地震によって核燃料がメルトダウンして原子炉を突き破るというような事態が目の前で起こるとは、かんがえもしなかった。翌3月12日の夕方に福島第一原発1号機の原子炉建屋が水素爆発を起こして大破した映像をテレビで見たときは、黙示録的終末に立ち会っているのではないか、とすらおもった。

それからの数週間のあいだにはいろいろなことがあった。フクイチからは3月15日、そして同21日にも大規模な放射性物質の漏洩・放出があり、僕がいた東京にも多量の放射性物質が到達した。小さな子どものいる知り合いの家族が西に避難した例もあったし、日本に住んで仕事をしていた外国人の知人の何人かは母国に帰っていった。かつて取材したことがあるけれど、交友があったわけでもないあるフランス人から、よければいつでもパリの私の家にいらっしゃい、歓迎します、というメールが来たのにはおどろきつつ、その情けに感じ入ったこともあった。

いつごろまでそうしていたのか、はっきり覚えていないけれど、少なくとも3月いっぱいぐらいまでは、外出時にはマスクをして帽子をかぶり、サングラスをかけたうえに手には手袋をし、足元のブーツにトラウザーズをたくしこんだうえで首にはスカーフやマフラーをぐるぐる巻きにして、肌の露出を最小限にとどめ、放射性物質による被爆を少しでも減じようと虚しい努力をしていた。

そんなふうにしながらも、僕は東京にいつづけて、事故前同様に、休みをとることもしないで連日、編集部に通っていた。ほとんど顔もよく覚えていないフランス人からの申し出を丁重にことわったことに不思議はなかったとしても、どこかに、一時的にせよ避難する、ということも真剣にかんがえることはなかった。東京でしか暮らしたことがなく、東京でしか仕事をしたこともなく、東京の外に頼ることのできる親戚ももたない僕は、その点では保守的だった。被爆にたいする警戒は、できる範囲でつづけたけれど、個人的で防衛的なものにすぎなかった。とはいえ、事故前よりも原発のことをシリアスにかんがえるようになり、新聞やテレビの原発報道を細大もらさずチェックして、原発に関係する幾冊かの本も読んで、エネルギー供給を原発に依存することをできるだけ早くやめるべきだ、と強くおもうにいたったけれど、原発への依存を減じるための社会的や政治的な行動に具体的に立ち上がったわけではなかった。

あの事故をきっかけに人生が大きく変わったり、変えざるをえなくなったりした人が、無数に近くいることは、知識としてはだれでも知っているとおもう。避難を強いられて難民のような生活に甘んじてきた人、いまでも甘んじている人が多数いることも。もちろん、原発事故発生以前に、そもそものあの大震災で近しい人を亡くし、住むところを失くし、故郷を喪失した人々のことをふくめて。

それでも原発は必要だ、という人たちがいて、その人たちがすべて原発からなんらかの経済的な利益を得ているとはかぎらない、という事実もある。僕も、そういう人の立場に立って原発を肯定する思考を組み立ててみようとしたことがあったけれど、肯定論を編み出すことはできなかった。放射性廃棄物を処理しきれないことや生じ得る事故対策までをもふくめた発電コストの大きさは、原発を社会的・経済的に正当化しないだけでなく、原子炉という「箱詰めの小さな太陽」を永遠に管理しつづけなければならないということじたいが、つまり1秒たりともゆるがせにできない管理の不可欠性じたいが、管理の不可能性を証し立てている、とかんがえたからだ。

そうして僕の思考はそこからさらに一歩進んで、原発に代表される科学技術を、人間による自然の支配と管理のために使用できる、とかんがえることそのものが、果たして正しいのだろうか、という疑問をも引き寄せた。たとえば僕が、太陽エネルギーという自然力と、レンズという科学技術的人工物を利用して火を起こせしめたとして、それは僕が太陽エネルギーを支配したり管理したりしたことを意味するのだろうか、と。そうではないにちがいない。僕は太陽エネルギーの性質に合わせた僕の頭脳と身体の運用によってレンズをば、太陽エネルギーを最適に通す角度に固定し、そうすることによって自然との協力関係を成立させて、発火現象をつくりだす一方の当事者になったにすぎない。自然を支配したわけでも管理したわけでもなく、自然と力を合わせるしかたで頭脳と身体と道具の運用をおこなっただけで、自然を客体とし、みずからを主体として、客体を主体の支配下に置いたわけではない。自然と僕とのあいだには支配も服従もない対等な関係がそのとき生起したのにすぎない。さんさんたる陽光は、レンズ集光の前も後も、さんさんたる陽光以外のものではない。箱入りの小さな太陽としての原発を、人間の科学技術が人間の都合のいいようにトータルに屈服させることはできないのだ。

というふうに、僕は僕なりに、3.11後に、原発についての思考を深めはしたけれど、僕にできたのはそれだけだった。被災者に手を差し伸べることもしていないし、投票行為を別にして、反原発や脱原発の運動にかかわってもこなかった。事故直後の1、2カ月内外を別にすれば、ライフスタイルやライフじたいを大きく変えることもしなかったし、しないですませた。

けれど、かれ、つまり山本太郎は、人生を変えた。芸能人から政治家になり、「権力」を取ると公言して支持者を組織し、日本の政治に起こした小さな波乱をより大きな波乱へと育てようとしている。7月の参院選でかれの党は政党交付金の交付対象となる要件を満たして国政における勢力となり、山本太郎はその壮大な目標達成のための全国遊説を9月にスタートした。このタイミングでかれを表紙の男にとりあげたゆえんである。僕たちは3.11を忘れるわけにはいかない。

参照:https://www.gqjapan.jp/fashion/article/20191024-editors-letter?fbclid=IwAR1gtZ-LtmGlIli7PPkUInWIzFDDDUs5eLzzoJBedGOEh3OXE6sn5iV5Nwc

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