私たちは保護者という名の支配者になっていないか?

「親が子どもを取り巻く環境で、保護者と支配者ではまったく違いますからね」
ある場所で当たり前にいった時、「それはどう違うんでしょう?」と、1人の親から質問を受けた。話というのは相手の理解がなく自分だけが分かっていても、とんと話にならない。幼児に童話を読んでみればいい、質問が沢山返ってくる子、そうでない子、もちろん質問の多い子は自分の中で物語を展開しているのだから、その展開中に分からないことを聞いてくる。つまり分かろうとの意欲が強いということだ。

子どもはお話を聞くだけではダメ。頭で空想し疑似体験するのがいい。話し手も話すだけではダメ。子どもと同じ世界に入っていくことだ。日本人の教育現場では師に対する礼儀作法が真にうるさい。特に聞く態度について色々いわれる。肘をつくな。ポケットに手を入れるな。姿勢を正しく。あくび、居眠りなどもっての他・・・。それらを執拗に注意される。いったい教師は教壇で授業しながら何を観察しているのか?

穿った見方をすれば、授業を聞く態度だけに関心があるように思える。穿った見方ではなく実際そうなのかも?お利口さんな子が無理して姿勢を正し、手悪さ一つせず、一心に教師の方を向いていると満足なのか。礼儀作法の授業じゃない、国語でも算数でも社会でも、何よりも聞く態度をうるさくいう教師は、いったい何を望んでいたのかと、今そんな疑問が批判に変わっている。聞く態度は何よりも優先されることなのか?これは儒教思想であり、道家の老荘が儒家である孔孟を批判した点でもある。「礼をうるさくいう人には会いに行くことさえ躊躇われる」という光景は、周囲に沢山あると思う。アメリカのハイスクールでの授業を見学し、カルチャーショックを受ける日本の教師は多いというが。

肘はつく、帽子は被り、机に足を上げ、これが授業を聞く態度かと。聞く態度が良いと教師は気持ちはいいが、聞く態度悪=聞いていない、とは違う。考えてみよ、教師は与える側だ。聞く態度を求めるってそれが教師の使命か?窮屈な姿勢に意識を捉われず、楽な姿勢で聞くのが頭に入るといわれている。リラックスの効用だ。机に足を上げる、床に伏せる、それがその子をリラックスさせ、吸収力を高めるなら・・・

(中略)

「保護者と支配者はどう違うんです?」の質問に戻る。言葉どおりに解すれば、保護は善意のもとにあり、支配は善意・悪意を選別しない。善意は悪意を排すことなら、支配に悪意が充満しても善意のなさを問題にしない。

しかし保護が決して良い訳でない。「保護」という善行のもと、「できない子」として育てられた子は傷つきながら育っていく。 保護とは「できない子」に対する言葉であり、1人で幼稚園にいけないから保護して連れて行くように、そういう親の強い「保護者」意識が子どもの自立を阻害する。特にいい子といわれる子どもは、親から愛されるために自分が「できない」存在でいるべきと、親の保護に同化をみせる。

したがって、無力な子どもを守るという親の母性愛は、そのままの形で維持されることで、 子どもを「できない」存在へと育ててしまう危険性を孕む。保護<過保護のバランス、注意点を考えながら親も対処しなければならないし、妄信的な母性愛がいかに子どもにとって害悪であるかがわかる。気づいた時は、ほとんど手遅れという状況が多い。

「支配」の問題点については度々取り上げ言及しているので省く。子どもが母親の自己愛の犠牲になる悲劇は、支配、過保護、いずれにも内在する。自己を犠牲にする事でしか親に認めてもらえない葛藤は、自分の少年時代にあったのでよく分かる。親に利用されているとさえ感じたくらいだ。それが飽和状態に達すると、自分の成績を近所にいい降らしたり、賞を自慢したりする事がうざったくなる。自分の賞罰に一喜一憂する母親がバカみたいに思えてくる。

女親にはそういうところがある。自己イメージの高さから子どものブランド=自分のブランドとしてはしゃぐ姿は、今日的にも滑稽なり。子どもの事を喜ぶのはいいが、それ以上に親が舞い上がっている。自慢話が好きな奴の親は間違いなくそういう親である。親が子どもに癒着することで、子が親の犠牲になっている事に気づいてない。早期発見、早期治癒を施さないと、子どもはその世界から抜け出せなくなる。

さらに最も卑劣なのが心理的拘束だろう。子どもが居間のドアをバタンと閉める。玄関の靴を揃えず投げ飛ばして家に上がる。食事中にべちゃくちゃしゃべって一向に進まない。そういう子どもの仕草にむかつきカリカリ来る父親。投げ捨てたようにいう。「ドアはゆっくり閉めろ!」、「靴はちゃんと揃えろ!」、「べちゃくちゃいわずにさっさと食えよ!」この怒り任せの言い方が教育か?

親の不機嫌な顔を眺めながら、怒りを発する声に怯えながら、子どもは親の不快感の原因は自分にあるとの罪悪感を抱く。教育書は、親の顔色を伺うような子はのびのび育っていないとの指摘があるが、親から多くの心理的拘束を受けて育った子だ。そういう「負」の感情に染まらぬ子は、「うちのバカオヤジは勝手に怒ってるんだよね」、「テレビみてると、『いつまで観てるんだー!』っていきなり消すしね」

そういう批判できる子の方がずっとずっとまともだ。親の不快や機嫌の悪さに対する罪悪感など、子どもは持つべきでない。と、子どもも思った方がいいよ。学校の成績の事で親にいわれても、気にせず、「うち親の子だから多分似たんじゃない?」といってやれ。そういう子の方が社会でうまく折り合いつけて生きられる。学校の成績が良くて、だから社会の対人関係や、顧客に対する誠実さとは何ら関連しない。
結局、批判精神を封じられた子は、悪魔に育てられても感謝をするだろう。目先に盲従し、将来的にどういう子どもになって欲しいとの長期的展望がない親は、いつもイライラ、ガツガツしている。まるで檻の中の虎のように、右に行ったり左に行ったり、精細がない。子どもに自分の感情を押し付け、それで幸せに感じるように子どもの行動を制限、命令する。こういう奴は店主や上司として社会にも存在する。
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子供のため、しつけと言いながら、過剰に干渉して子供の判断力や自立心を奪ってはいないでしょうか。

例えば進路に関して、子供の思いと親の意見が対立するという話をよく聞きます。でもたいていの親は成績から判断してできるだけ偏差値の高い学校にいくよう勧めるだけで、子供の将来や、本当にやりたいことが何なのかを真剣に考えようとはしません。

子供が自分で考え判断すべきことを、親の勝手な価値観で歪めてしまう。これもまた保護者という名の支配者になっている典型なのではないでしょうか。

参照:http://web.kansya.jp.net/blog/2019/06/6948.html

参照:https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/44550417.html

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