大英帝国にも屈しない。天才学者・南方熊楠が見せた「祖国への思い」

博物学者、生物学者、そして民俗学者でもある「南方熊楠(みなかた くまぐす)」をご存知でしょうか。日本やアメリカでは飽き足らず、世界一の学問を目指してロンドンに渡った熊楠は、まったく無名の東洋人からその名を世界に轟かせるまでになりますが、異国の地でも「祖国への思い」と「愛国心」は決して捨てませんでした。
mag2より以下引用です
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・日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる
明治元年の前年(1867)に和歌山で生まれた熊楠は、幼い頃から異様な神童だった。小学校の頃には、友人の家にあった和漢三才図会(図入りの漢文による百科事典)を読みふけっては、暗記した文章と絵を、家に帰ってから描き写した。全105巻の筆写を5年で終えた。中学に入ると、漢訳一切経3,300巻を筆写したり、欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけり、かと思うと、2日も3日も寝食を忘れて、山中で昆虫や植物の採集をしていた。

その後、東京大学予備門(後の旧制1高)に進んだが、教室の中の学問には飽き足らなかった。世界を駆けまわり、世界中の学問をし、大自然を観察し、天地のいのちの不思議を知る―それが熊楠の夢だった。おりしも、イギリスの植物学者バークレーらが6,000種もの世界最初の標本集を刊行したという新聞記事を読み、

「男と生まれたからには、バークレーたちを超える7,000種の菌類を集め、日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる」

と、我が身に誓った。東大予備門を退学して、明治19(1886)年、20歳にしてアメリカに渡る。ミシガン州の農学校に入ったが、レベルの低さに失望してここも退学。フロリダの食品店で働きながら、近くで植物類を採集しては研究する生活を続けた。そこからさらにキューバ島に分け入って採集を続けた。超人的な記憶力を持つ熊楠は、この頃には18カ国語に通じていた。

しかし、世界一の学問を目指す熊楠には、新興国アメリカは物足りなかった。こうして明治25(1892)年、熊楠は世界の学問の中心地、大英帝国の首都ロンドンに上陸したのである。

はじめて学問の尊さを知る

・「いっちょう、やったるか!」

英国で最高の権威を誇る週刊科学誌「ネーチュア」が、星宿構成についての論文を募集している事を知って、熊楠は発奮した。半月ほどかけて「東洋の星座」を書きあげて応募した所、世界各国の天文学者や大学教授らの論文を抑えて、みごと最優秀の一編として掲載され、またその批評がタイムズその他の新聞紙上に大きく取り上げられた。

貧しく学歴もない異邦の青年ミナカタの名が、一躍世界中に知れ渡った。それを誰よりも喜んでくれたのが、フランクス卿だった。熊楠を自宅に呼び、豪華な祝宴を開いてくれた。この時の感激を熊楠は後にこう書きとめている。

英国学士会の耆宿(長老)にして、諸大学の大博士号をもつ70ちかい大富豪の老貴族が、どこの生まれともわからぬ、学歴も資金もない、まるで孤児院出の小僧のごとき当時26歳の小生を、かくまで好遇されるとは全く異例のことで、小生、今日はじめて学問の尊さを知ると思い候。

大英博物館では、東洋部図書部長のロバート・ダグラス卿を助けて、日本書籍や漢籍の目録作りに没頭した。ダグラス卿は熊楠の実力を認めて正規の館員に推薦したが、熊楠は「(雇われ)人となれば自在ならず、自在なれば(雇われ)人とならず」、自分は勝手千万な男でありますゆえ、と辞退し、無官薄給の「嘱託」の地位をもとめた。

その後、「ネーチュア」誌を中心に、ロンドン滞在中だけでも52編もの寄稿をして、熊楠の学名は鳴り響いていった。その間、「ロンドン抜書帳」と名付けて9カ国語の文献を筆写した大判大学ノートが54冊、1万800頁にのぼった。

またオランダ第一の東洋学者グスタブ・シュレーゲルが、熊楠の活躍を妬んで、ちくちくと意地悪な批評をしたりするので、「売られた喧嘩ぁ買うちゃるぜぇ!」と論争を挑み、和漢洋の文献を縦横無尽に駆使して、こてんぱんに論破した事もあった。

欧米での長い学究生活を通じて、東洋や日本の古い歴史や文化が、西欧に比べて決して劣るものではないことを熊楠は知った。個々の学者の学問の深浅こそあれ、盲目的な西洋崇拝は熊楠には無縁だった。
「最も博学で剛直無偏の人」

この頃、国立ロンドン大学総長でイギリス第一の日本通のフレデリック・ディキンズも熊楠の活躍を評価して、総長室に招いた。総長室に姿を現した熊楠にディキンスは書き上げたばかりの「英訳 竹取物語」を見せた。熊楠はすぐに原稿を読み始めたが、「ここのところはちょっと良うないなぁ…、あれっ、これはいかんなぁ」と首をふりはじめた。

ディキンズは顔色を変え、唇をふるわせて

「ミナカタ、汝の暴言、無礼であろう。日本ごとき未開国からきた野蛮人は、外国の長老に礼を尽くすことも知らぬのか」

熊楠も負けてはいない。窓ガラスをびりびり震わすような大声で、

「何を云うちょるか。日本人が礼を尽くすのは相手が正しき老人の場合だけじゃ。わが日本の文学を誤読し、そのまちがいを指摘されても反省も訂正もせず、怒鳴り返すような石頭の老人をだれが長老と思うか、紳士じゃと思うか。相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を述べたてるような未開人はイギリスにはいても、日本にはおらん」

この日は喧嘩別れになったが、ディキンスも独りになって、冷静に考えてみると、なるほど熊楠の指摘した点はきわめて正しい。それに卑屈きわまりない在英日本人の多いなかで、貧書生ミナカタは大英帝国の権威に臆することなく、祖国の名誉のために堂々と抗議したのである。その勇気にディキンズは強い感銘を受けた。

「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の人」。ディキンズは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、終生変わることのない親交を結んだ。
続く

 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=322613

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