食事は宗教ではない

食事は宗教ではない

日本では、いろいろな食事法が入り乱れ、一種の宗教競争に似てきている。それを提唱する教祖、群がる狂信的な信者、SNS上での信者どうしの醜い争い、怪しげな物販、医療立場を利用した誘導、またこれらを眺めて揶揄ばかりする暇人、まさに宗教を取り巻く環境そのものだ。

信者の多くは、たとえ自分の身体に異変が起きていても、信仰そのものをなかなか変えはしない。それは、おそらく否定してしまうと自分のアイデンティティを失ってしまうからだ。自分の尊厳を落とすことは死に瀕することよりも恐ろしいのだろう。

そもそも万人に通用する食事体系はない。なぜなら、今ではどんな食べ物も優れた流通のおかげで手に入るようになったが、本来の自然界ではその土地やその気候で採れるもの、あるいは季節によって食べるものが異なることがあり、人はその環境とともに進化・適応してきたからだ。さらに、個体差や人種差の幅はとても大きい。

自分がこの食事法でうまくいったから、他の人も絶対にうまくいくという保証など、どこにもない。逆に、他の人がうまくいったから、自分にも合うということはないように。また、たとえ良好であっても、短期的な経過なのか、それとも長期的な経過での話なのかではまた意味が違ってくる。

自分の思想や考え方を善とし、それ以外のものは悪とする、この発想はとても危険だ。しかし、実際にそういう奇妙な正義感をもつ人や集団は多い。集団化し、少数の反対意見は叩き潰していく。真実を追求という人ほど自分の考えに固執していることが多い。なぜなら、真実追求より、自己正当化や思想確立の維持に務めて突き進むようになるからだ。つまり、立場を優先的に守りたいのだ。

伝統集団の生活や野生の世界では、食によるこのような宗教競争は当然ない。

本来の食事は土地や民族によってに内容は異なるものの、一貫して共通することは、自分たちの生活圏にある生き物や作物を最大限に活用してきたことだ。必要な栄養やエネルギー源となる食べ物を経験的な体感によって伝統的に受け継いでいる。野生動物では、さらに、食事だけでは足りないミネラルを求めて、赤土を食べたり、ミネラル溶出している岩石を舐めたり、川の水を飲む。

食事は宗教じゃない。食事は食事であり、自分が生きるための手段であり、思想や考えを他人に向けて正当化するツールとして利用するものではないはずだ。食事は自分の身体を作るためのものであり、向き合う先は他人ではなく、自分の体のはずだ。

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