ある生徒から努力についての話があったが、そもそも何であれ努力が美
学というのはどのようにして認識が広まったのか?改めて調べてみた。七沢研究所の大野氏に聞いた話ですが
>エジソンはこういっていた
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」と。実はこれは誤訳だった。むしろ意図的に捻じ曲げられた可能性がある。つまり、一般庶民の能力を制限する為に。
元々エジソンが伝えたかったことは、このようなことだった。
「1%の閃きがあれば、99%の無駄な努力をしなくてもいい」ということ。
つまり、真逆なことを言っていたわけである。
エジソンは晩年「努力を強調する文章に書き換えられてしまった」と嘆いていたそうだ。<
加えてエジソンが晩年語っていたことを調べると
>「生まれたばかりの赤ちゃんの頭脳にはリトルピープル(地球外生命体)が住みやすい構造になっている。このリトルピープルが人間をコントロールしているのだが、大人になるとこの声が聞こえなくなるのだ。しかしこの1%の閃きを感じ取ることができれば、99%の無駄な努力をしなくとも大丈夫なのさ。」<とのこと。(リトルピープル=潜在思念?)
そもそも、努力の「努」の語源を調べると、意味は「力を尽くして働く奴隷」という意味。
漢字が示すように、その語源は「奴隷の力」ということ。
それが、今では努力=良いもの、と美学であるかのように固定観念化されている、というのを今回の実現塾を通じて実感した。
その一方で論語の言葉にもあるが、
「子曰く、これを知るものは、これは好む物に如かず。これを好む者は、これを楽しむものに如かず。」努力ではなく、楽しむこと。楽しむからこそ、本来の能力が十分発揮されること。
それこそが本来であり、むしろ努力という概念は本来の人間のもっている力を封鎖している(=支配者が意図的に行なっている)という風に捉えた方がいいのではないか?と思った。