やまとことばでよむ「古事記」 ~自然の摂理を観念力で言葉化した「やまとことば」と視覚化された支配者の為の文字

「古事記」の国産みの段はイザナギとイザナミのあけすけな濡れ場だけがむやみに注目されているが、古事記が男女のそれになぞらえて語らんとするのは「陰と陽の誘い合い」である。生物の繁殖はもちろん大地に雷が落ちるのも、月の満ち欠けも、原子構造も、そのほかの全ての物理現象は陰陽(±)に拠るとし、更にこの世の起源をも陰陽に求めているからである。

男神のイザナギは陽の力、女神のイザナミは陰の力を象徴した存在であり、その使命とは縄を綯う如く陽と陰を拠り合せ何かを生み出すことである。ただし「な-土」という重要な媒体を通す。イザナギ以前の世界にはその名に泥土を暗示させる神々が複数現れており、またイザナミとともに「アメノヌボコ-天沼矛」を以って形なき流れる大地を掻き回したとされている。天地は「な-土」に始まる。 
『天沼矛をとるイザナギ、そしてイザナミ』
即ち「いざかしこみて陰陽を交え土より産み為さん」、そう誘い合うのがイザナギとイザナミの名の解釈となる。産み成さんとするのは国産みと神産みにほかならない。

こうした考え方は大陸の陰陽思想に影響を受けたとするのは狭い見方といえる。なぜなら陰と陽の両極支配は日本の先祖たちが自然の摂理の中にすでに見出しており、上述の「老ふ-生ふ」「諫む-勇む」の例にもそれは明確に現れている。稲作をはじめとする大陸文化が伝わるそのずっと昔に、やまとことばは陰陽を基本構造のひとつとしてすでに組み立てられていた。後に大陸から伝わった陰陽思想を抵抗なく受け入れたのは日本にそうした土壌があったからこそであり、陰陽への理解がすべて大陸文化の影響であった訳ではない。                            
この世の起源、わが国においてそれは天地開闢という神話に語られ今日に伝えられている。しかし現代ではこの神話というものを古代人の空想による説話と割り切り歴史そのものからは切り離して考えるのが普通である。時代が降るにつれ人も文明も進化し現代は古代より優位にあるという根拠なき思い込みが常に働くことがその原因であろう、しかし実際は、時代とともに人も社会もただ怠惰に、強欲に、淫蕩に、脆弱に、臆病かつ残虐になったことだけは確かでも優れているかは実に疑わしい。
いにしえの祖たちは子々孫々たる我々に何かを託そうとしたことは疑いなく、それを空想と括って非現実と扱うことが果たしてどれだけ罪深いか、思うにつけ畏怖の念に駆られざるを得ない。それならば神話とは史実とでも言うのか、とお叱りを受けそうだがそうではない。

稲作は、端的に言えばカミに帰属するはずの土地に資産価値を与えてしまったのである。木や土の中に生るもの、海から山から獲れるもの、それをカミの恵みと拝して共食していた時代は去り、自らの力で切り開いた土に糧を実らせさらには庫に蓄えるようになった。

森羅万象はおしなべてカミの持ち物であるという考えはここで破綻した。糧のある処を求めて、つまりカミの意のままに移動していた先祖たちは土に縛られた。冒頭で音霊が文字の中に封印されたと述べたが、それに実によく似ている。そして土を争い、名を競い、血を流した。弱者は強者に使われるようになり、強者の先祖神を氏神と祀ることを余儀なくされたのである。氏神は土地の神として君臨し、農耕を基盤とする土地と人民支配はこの氏神の名の下に行われた。土は氏神の物となり、その総帥である高天原の神の物になり、ひいてはその子孫たる天皇家の物となる。

律令制が布かれ土が完全に支配されるようになる時代を迎えると、「古事記」や「日本書紀」が文字によってかかれた。

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