太平洋戦争(大東亜戦争)と天皇、財閥、官僚・・・戦争は軍部による独走であるとの見方は誤っている。当時の三菱・三井・住友・安田の4大財閥は軍部に強力な影響力を有しており、かつ官僚にも強い影響力を持っていた。

○統一司令部の喪失と天皇の統帥権 
大日本帝国憲法には天皇の統帥権が定められている。しかしそれが決定的になったのは日露戦争の頃である。それまでは陸軍参謀本部が海軍軍令部を統括する形だった(当時の世界ではそれが一般的)。ところが当時の海軍大臣の山本権兵衛は陸海対等を理由に戦時大本営条例の改定を要求し、統一指揮者を廃せよと主張した。その結果1903年には統一司令部が廃止される。これにより政府が軍事に口を出すことはもとより、陸海軍の統一司令部による作戦立案もなくなる。これが軍部の独走を許したとの見方もあるが、逆に言えば陸海軍両司令部の報告(提言)を受けるのは天皇だけになり、専ら天皇(とその黒子たち)に権限が集中することになる。大本営は戦時にのみ設けられるが、1937年の日中戦争から設けられた大本営に軍側の統一司令部は存在しない。
開戦時の首相兼陸軍大臣であった東条英機が、海軍の真珠湾攻撃やミッドウェイ敗戦を知らなかった(少なくとも正式な報告は受けていなかった)のはその象徴である。

○財閥も戦争を望んでいた、
戦争は軍部による独走であるとの見方は誤っている。当時の三菱・三井・住友・安田の4大財閥は軍部に強力な影響力を有しており、かつ官僚にも強い影響力を持っていた。
太平洋戦争中の4年間に重工業において4大財閥は全国投資額に占める割合を18.0%から32.4%にふやし、金融では25.2%から49.7%へと急膨張を遂げている。
最近の資料によれば「日本の軍需工場を攻撃するな」がウォール街の共通認識だったという。彼等は日本の資本主義を段階を画して発達させ、収奪していくという狙いを持って戦争に臨んでいた。、

1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。これは、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」の日本の国策だった。これを主導した後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
旧財閥だけではない。日産自動車、日本窒素、日本曹達などの戦後の有力企業は満州の利権を巡って急成長した企業群である。
戦後、財閥関係、財界人ではA級戦犯として12人が逮捕されたが、結局、全員免責された。

当時皇室は横浜正銀、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争が長引き、財界が植民地から搾り取るほどに皇室も豊かになるということになる。

○日中戦争の泥沼化と国家総動員体制の確立
1937年廬溝橋事件が勃発化し、日中戦争が本格化する。当時は国民党政府は時間を掛けずに降伏する、と見られていた。しかし、思いの外苦戦が続いた原因は、蒋介石とドイツの協定(ハプロ秘密協定)によりドイツが軍事顧問団を派遣し、武器供与と生産支援を行ったこと、及びコミンテルンの指令により国民党と統一戦線を組んだ中国共産党のゲリラ戦であった。ただし当時軍部は陸海軍とも対中国戦の拡大には否定的であり、一撃を加えて和平をという意見が支配的であった。しかし火を消すことに同意しなかったのが、当時の近衛首相(とマスコミ)である。
日中戦争の泥沼化に伴い、日本では「国家総動員体制」が構築される。内閣調査局(後に企画院)を頂点に軍需産業、重工業、資源産業に予算等を重点配備し、物資を円滑に調達し戦争を遂行する体制を築き上げるというものである。これは石原莞爾らが、「軍事衝突回避」を前提にした「国力増強計画」である「重要産業五年計画」を、日中全面戦争の長期持久戦の泥沼化により、「抜本的な変更」を加えたものである。また総動員体制には株主(旧地主や貴族)の権利を制限し、労働者を保護する要素もあった。この計画の実施により1937年~1940年にかけて、革新官僚始め満州国から優秀な人材が、「企画院」に次々に引き抜かれていった。また転向した共産主義者も内閣企画院に引き抜かれた。
1940年日銀法が改正され、総戦力遂行のための金融体制が完成した。
総動員体制においては、株主の権利は制限されたため、株式市場は低迷し、銀行による間接金融が重要となった。各都銀はオーバーローンとなって日銀に依存する体質となり、企業は銀行借り入れに依存する体質となった。資金配分面での統制とともに、金融機関の整理統合も進められた。1935年に466行あった普通銀行は、1945年には61行に整理された。

○総動員体制と近衛
当時の首相であった近衛家(近衛文麿)は藤原家の流れで五摂家の筆頭でもあり、当時天皇の前で唯一、足を組むことを許されたと言われている。
彼は東大哲学科を卒業し、後に京都大学でマルクス主義者の河上肇に薫陶を受け、長男をスターリンの元に留学させている。彼の諮問機関が「昭和研究会」であり、そこには三木清やスパイであった朝日の尾碕秀美なども名を連ねている。
ここで近衛が共産主義者であったかどうかが問題なのではない。当時のインテリの多くがマルクス主義に傾倒する中では、国家総動員態勢は社会主義者と右の国家社会主義者を糾合する国論統一の手段となった。また大恐慌で殆どその影響を受けなかったソ連の計画経済は、革新官僚にとっても、最も研究すべき対象であった。同時に自らの権限を拡大するものであった。
さらに財閥にとっても国家と一体化することは自らの立場を更に強化することになる(国家独占資本主義)。
戦後財閥は名目上は解体されたが、グループとして実質上温存され大蔵(旧内務省)と銀行・商社を頂点とする「護送船団体制」はほぼ維持された。戦後の高度成長期の(唯一成功した共産主義とも呼ばれた)この体制が、戦時に起点を持つことは興味深い。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=333590

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