依存症の本質:プライド、気概、正当性、正義感、善性などを見せかけているものほど、究極の依存症だといえる。

依存症の本質とは。

ジャンキーというのがヤク中のことを指すと思っている人が大半だが、ヤクを飲んでいる人のことだけさすと思ったら大間違いである。これは専門的に述べるなら肉体依存と精神依存の話になる。そして人類が持っている精神依存性とは、一体どんな行動を起こし、どんな反応を示し、なにが精神依存性を示しているかということを、自覚できないことこそが精神依存性の象徴でもある。

精神薬のヤク中は自分がヤク中であるとか、依存の極致であるとかは認識できず、依存から発生する被害者意識の極致であるとか、自分が責められているという勘違いとか、自分の近くのことになにかいわれると無性に反応するとか、自分は間違っていないというとか、そういう思想にとらわれ続ける。たとえばこちらが依存症であると指摘しても、それに対して否定か逆ギレくらいの反応しかできない。

肉体依存の話はここではしない。依存とは頼るということでもあるが、すがるということでもある。専門思想をもつもの、プロ意識を主張するもの、正しく伝えよというもの、こうあるべきだと述べるもの、すべて究極の依存症だが自己の依存には気付かない。真の意味でその人が依存していなければ、そんな反応は決してしないし、自信は内に秘めて自分を嗤えるか、反応さえしないのが通例だ。

依存症とはなにをどう取り繕っても、分かってほしいという願望に憑りつかれている。子どもが幼い時に親に訴えかけるのと同じで、主張が聞いてくれるもの、達成されるものだと思っている。それは主張として正当だと思っているその心こそが、依存症の最たるものだという理解は存在していないからである。そして依存症は相手の心は一体何を訴えかけているのか、という二重の読みが決してできない。

よく依存症=クレクレ君=キングーミンは、言われたことや書かれたことに素直に反応してしまう。あとよくある依存症の行動パターンは、たとえば相手が質問してくるとそれに答えず似た質問を相手に投げ返す。これはヤク中がよくやる行動パターンなのだが、やる段階で自分が重度のジャンキーだということには気付いてない。なんでキミたちはカスなのか?と問われると、あなたはカスじゃないんですか?と答える安直なものほどにジャンキーは存在しない。

他にもジャンキーはネトウヨに似た行動として、上記のような初歩の依存症理論を理解できないためバカにされ、バカにされダメだしされると「逃げるんですね?」などという、さらに被害者意識+勘違いをしでかしてしまう。おそらくこの記事を読んでいる人にも経験があるだろうが、面識があり近くにいて面と向かって話すことができれば話してもいいのだが、無駄だなこの頭と思った人にこそ、粘着されるというのを経験したことがあるはずだ。

真の意味で自立している人というのは、相手の会話の中や文字の中にある正当化をすぐに見出す。自分を守っていることを素人用語でも、専門用語でもブロックというのだが、それを見出すのである。ようするに依存症は自分の中にある深層心理というものを、まったく見ることができない存在なのだ。それに比して自立とは一種の執着の解放でもあり、悟りっぽいところもあるので、自分の深層心理をいつも直視しようとする。

結局考えてみれば依存とは、知識や経歴や資格やプロであるかないかとは全く無縁である。むしろ誇り、プライド、気概、正当性、正義感、善性などを見せかけているものほど、究極の依存症だといえる。依存の真理は残念ながらどの教科書にもネットにも載ってはいないものである。それは自分の依存を直視し、多くの依存症を直視し、それらの共通項は何かを知ることでしか、身につけることはできないのだ。

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