深刻化している日本経済の低迷は、少子化による次世代の急減とあいまって、今後日本の財政基盤を大きく揺るがしていくことは疑いようもない

コロナ禍をめぐる一連の事態を通し、社会が政治や身の回りにある組織に向ける目線は正しく機能するだろうか?
深刻化している日本経済の低迷は、少子化による次世代の急減とあいまって、今後日本の財政基盤を大きく揺るがしていくことは疑いようもない。そして、世界経済から淘汰される危機は、未だに「保身の為に過去にしがみつくために、できない理由を考えている組織」では、特に大きいものになる。
 一方、政治・行政・教育・営利企業に限らず、コロナ禍で急速に拡大たオンライン化は、それぞれの組織の存在意義について本質的な問いを突きつけている。事実、ネットがあるのに選挙だの間接政治が必要な理由は無い。 戸籍も住民票もサーバー一台で管理出来る事。これまで大教室で行われてきたような、パッケージ化やモジュール化に適した授業や学習内容は、リモート講義で容易に置き換えができる。また、知識の伝授のみで済むのであれば、学習塾で当然になっている優れた講師の講義を全国で共有すればよいのであって、学校教員も現在ほど人数は要らない。
 高等教育・大学に存在意義があるとすれば、その種の知識伝達型の教育だけを行う場としてではない。むしろ既存の知識や通念を批判的に検討し、自ら新しい知識を創造していく力を養っていく場であるべきなのだが、オンライン化した授業すらまともに展開できていないのが教育現場の実情である。
日本の致命的な欠陥は、そのような批判的思考能力を育成するための努力を怠ってきたことにある。「自ら学び、自ら考える力」あるいは「主体性」などが盛んにうたわれてきた。しかし、そのような官製の「学力」の定義は、批判的思考能力を排除した現場で醸成できるものではない。
みなさんの廻りの人々のコロナ禍への対応を見ても明らかなとおり、官僚・利権が造るマスゴミによる非科学的な空気で支配されている。実際、この国の指導者層の一体誰が「主体的に変化に対応し、自ら将来の課題を探究し、その課題に対して幅広い視野から柔軟かつ総合的な判断を下すことのできる力」をもって、感染症対策に取り組んできただろうか。 アベノマスク批判や自粛xx、マスク流行が示すことは「できない理由を探し続けた村」の関係者たる日本人の所以である。 そして、それらの人々の多くが教育を受けたのは、あなたと学校である。
点数主義とは金慾・権力欲の育成であり、それが正しいか間違っているかではなく独立心を持って通念や権力に盲従することなく確固たる信念にもとづいて行動できる人材が居てこそ人間社会。 忖度と言う名の隷従と、恐怖によってのみ駆動される家畜はどれだけの数が居ても社会にはなり得ない。
 「自ら考える力」などとうたう日本の教育行政は、むしろその建前と逆に思考と行動を圧束しかしてこなかった。 家庭でも良い子とは従順であることだけである。 また、もっぱら日本経済に奉仕することが期待されるという意味で、実は極めてドメスティックな「グローバル人材」とは護送船団方式の中での水兵の養成だけを目指してきた。そして、日本の企業や大学の多くは、そのような政府の方針に唯々諾々と従い、主体的に行動することはおろか、自分自身の頭で考えることすら否定し続けきた。
同調圧力とは、奴隷が抜けを許さない根性であり、できない理由だけを今もなお探し続けるだろう今後の政府のコロナ対応は、まさにその典型で指令である。
 壁を手で押せば、手は壁に押される。 作用があれば、反作用があるのだが、ワクチンがあればコロナは大丈夫と言う「作用」を謳われたときに、その反作用を誰も考えないし、観ようとするものを否定すらする。
 しかしもはや、そのような過剰同調気味の忖度や同調圧力が自然に対して通用するはずもない。ジンルイの儚い愚かな新興宗教である「科学」が脆くも津波と原発爆破で証明されたこの国で、リモートワークやリモート教育が一般化した「アフター・コロナ」の世界で生き残っていくには、私達は自らを見直し、どれが悪か考え、自分の善に対して真摯に鍛え上げていかなければならないのである。
感染・疫学的には、治療が確立されておらず社会的医療リソースが不足の場合の不要不急の外出は利己的で悪である。
その環境下でありながら「強盗キャンペーン」を繰り広げるのは、感染拡大よりも「利己的」であることを促進すると言う「教育・倫理的」観点で悪である。
令和オジサンの菅氏がバトンを持って最初のお仕事がこれだから、これからもやはり先は思いやられる。。。
テレビもネットも煙幕しか流さなくなった。菅ちゃんのお得意は統制・粛清だと言う。その裏で、金融危機や強盗が跋扈し始めている。
コメント欄で「シャアします」なんて要らない。 今必要なのは皆の目の玉の数だけ「リスク情報が共有できるか?」である。
自助を共助・公助より上に持ってくる菅氏の策は分断の最たるもの。 彼の想定外である「共助」による強盗集団からの防災に必要な情報を是非とも心掛けて欲しいものだ。
防災の観点では、あなたは報道機関ではないのだからそれが正しいか誤報かではなく「事実と意見」でよい。
それに対して、皆が「集合知」を形成するかどうかがSNS・Facebookでの価値である。
異なる事実の提起はコメント欄に必要だが、異なる意見は自分のタイムラインでやればいい。
Facebookにはそう言う構造しかないのだから、それをできる人を友と呼んで大切にして欲しい。

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参照:https://www.facebook.com/takashi.marui/posts/3471746626242705

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