知能とは、未来を現在より良くする能力・・・学習と経験で得られた知識を活用しよく考え、物事に対して優れた判断をすることで、現在より良い状態をより多く創るのが「善」

知能とは、未来を現在より良くする能力です。

学習と経験で得られた知識を活用しよく考え、物事に対して優れた判断をすることで、現在より良い状態をより多く創るのが善です。
世の中の殆どの悪は、無知の闇にあって、犯罪など泥棒や詐欺師が跋扈するのは相手の苦しみを理解できないからという時がほとんど。 他人様の悪事は目につきますが、そもそもあなた自身が、地球・歴史において泥棒とならぬようにすることがまず肝要です。

人生に「遅すぎる」ということは決してない

全ての人は、善を殖やす為に、考える能力をより高める事が現代では求められています。
頭を使う練習を始めるのは、いつから始めても遅すぎるということは決してありません。やり方さえ間違わなければ、保育園からでもぐんと伸びる子はいくらでもいますし、定年退職してから始めたとしても良いのです。そもそも勉強をして考える力を伸ばす目的は、テストで良い点を取る資格を取るためではありません。人生のゴールは名門大学に合格することでも、大金持ちになることでもありません。

考える力は、すなわち生きる力で笑顔を殖やす能力です。そして生きる力は人生の苦難を乗り越えるために必要な力であり、誰もが必要な力です。 この考える力は雲や雨や大地に波に対峙する力でもありますが、多くのシティーボーイの皆さんに求められているのは、そういった自然相手よりも、法律や人心やビジネス上での人や社会相手でしょう。多くの問題は「なぜ?」「どうして?」と考えて、頭を柔軟に、より相手や周りよりより速くすることが、地球上の殆どの自然な生き物と異なるヒトという私達に与えられた生存競争の社会です。
暖房で寒くもなく、エアコンで暑くもなく、飢えてもおらず、次世代のための資源すら喰い尽くしていると言われる私達は、この戦争もなく、エネルギー使いたい放題・情報無料の今のうちにご先祖様・子々孫々に恥じない「頭の使い方」をして、あなたが為さねばならぬことが沢山あります。

育ってきた環境や頭を使ってこなかった時間の長さにより、頭を使えるようになるまでの期間に個人差は確かにあります。けれども、正しい方法で訓練すれば、たいていの人は、必ず知能を取戻し、善行を成し遂げる思考力を身につけられます。 まずはあなた自身があなたや子どもの可能性をまず信じてあげるべきです。

ただ、くれぐれも焦らないように気をつけてください。あなたや子どもの力はまだまだ伸びるものだと信じること。そして、夢はできるだけ大きく持つことです。

あなたが自分の夢をきちんと描き、その実現に必要な一段一段をしっかりと踏み締め、その背中を魅せる事をもって友人や子どもに「もっと大きな夢だっていいよ。きっと叶うはずだから」とシェアし引き伸ばしてあげる。目一杯、大きな夢を持たせてあげる。それこそが親の、一番大切な役割だと思います。
あなたのお爺さんが、あなたに「偉いね」と言ってくれたあの日、あなたは総理大臣より偉かった。
あなたのお母さんが、あなたに「ありがとう」と言ってくれたあの時、あなたはスーパーマンより強かった。
あなたの夫が、「君を一生大切にするよ」と言ってくれたあの場所、あなたは天国にいた。

今度は、あなたが誰かに夢を与える側です。

1億円をあげる・・それが実現できなくても、その方角に向かって背中を見せてその第一歩で10円を与えたそこであなたが力尽きても、それは嘘や詐欺ではなくて、それがあなたの精一杯の愛。
早とちりのお父さんが進む方向を間違えていたとしても、それは身をもって間違いだよとあなたに伝えてくれた結果であなたに残してくれた価値と足跡なのだから、それを微笑んであげるのも愛。
なぜなら、結果が多少痛くても、笑顔がそこにあればそれこそが幸せを殖やしたという本当の結果なのだから。

単純記憶に体で覚えることは、もうあなたには無理があるかも知れない。
数学や司法試験や言語習得、きっとそれは学生のうちにやっておけば良かったろう。
でも、ないものねだりだけで「たられば」してそれがなんになろう。
目玉があって、両手が動くなら、今日の今からあなたにできないことは何もない。

数学には立体図形を回転させたり、切り取ったりした結果がどうなるかを問われるような問題があります。こうした問題を解くためには、立体図形を頭の中で思い描き、それを指示に基づいて再構築していく必要があります。まさに考える力が問われる問題の練習です。
文章問題にしても、その意図を正しく理解しなければ正解を導き出すことはできません。あなたのFacebookフィードには毎秒数百の投稿が届くでしょう。 商売や宗教、いろいろな人が趣向を凝らした問題をあなたに出題していると言えます。 これを解けるかどうかはあなたが自分の人生を目的を持って楽しめるかどうかの分かれ目となります。

誰かの投稿を見て「知っていること」と「知らないこと」の2択で「いいね!」と「スルー」だけでは単なる賽の河原の石積です。 スマホの上で指を滑らせ「知らないこと」をさらに2つに分けて、「知らないと知っていること」と「知らないことすら知らないこと」に分類し、そこで「知識を得る」というのは、「知らないこと」を「知っている」に変えていくことを主にするのが学生。幸せを殖やす為に「考える」ことで重要なのは、この領域のさらに外側にある「知らないことすら知らないこと」、未知の未知という領域。

人は、この未知の領域を動物の本能が暗闇を恐れるが如く忌避・忘れがちです。するとどうなるかと言えば、自分が全く想定していないものや理解できないことを経験したときに、瞬膜がおり・目が盲しい、それを否定にかかります。これが「頭が固い人」です。これは知識がない「無知の人」より、むしろ知識と経験を多く身につけた「老人・認知症」と言われる傾向です。それは知識があっても思考の結果が笑顔を殖やすのと相矛盾する逆方向のものであることから嫌われるのです。

「知ってる・知らない」の領域とは「問題も答えもある」学生さんの領域。無知の知といわれる「知らないと知っている」領域は「問題はあるが答えはない」領域で、あなたの周りにあなたの言葉や手が届くなら無数にある。 あなたが植物人間以下になりたいなら目を閉じて「知らないことすら知らない」領域という「問題すらも見えていない」領域でずっと眠り続けるか、無知蒙昧の暗闇で恐怖に怯え悪の闇に沈むしか無いでしょう。

その悪は嫉妬と憎悪を産み、「我=自分」と「他=他人」「彼岸=悟りの世界」と「此岸=迷いの世界」との二項対立を煽るデジタルと言う偏西風に乗ってFacebookの上で狂っていく。

 悟りに必要な、無我(永遠不滅の実体があるものは存在しない=とらわれない)の悟りの境地から離れていくので、「私が」「あいつが」というような意識を持っている人は、悟りからは程遠い「狂い」の迷宮に迷い込む。

 このような人は、日頃の現実社会での行動も独善的(自分にとらわれた状態)になり、自分とスマホの間にある空間だけにしか意識が存在しないで、他者への気配りができない。それが、マウンティングやパワハラやセクハラなどの暴力暴言・問題行動を引き起こす原因。

 家族から社会まで、人がひしめく多くの組織では、同僚たちと自分を比較する形で、相対的な成果が第三者から問われる。そのなかには自己の評価を上げるために相手を攻撃し、陰で誹謗して相手を陥れる者が現れる。客観的に見ればそれは「自己防衛」の裏返しだろう。しかし、いつしか切磋琢磨とか自己研鑽より攻撃にある破壊衝動の充足が暴走する。 結果などどうでも良くなり自分が堕ちていくと解ってすらなお自分の不満を自分より弱いものを傷つける事で力は正義であると正当化する。 破壊こそがだけが自分が存在する実感だが、相手を破壊してしまうので、なんら果実を得られず永久に誰かを攻撃することを繰り返し続ける。 まさに無間地獄であり最後には鬼となる。

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「愚かな人は他人に害を与えることをしかできない。
その言葉には本音もまごころや真面目さもない。
他人に与えることをしないで、奪うことしかできない。
そのような人は好んで他人の物や心を壊し五戒を犯す」
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このような「無知の闇に惑う愚かな者たちの非難や賞賛には際限がない」。
 Facebookでよく観られるマウンティングやウヨに陰口女コロニーなどパワハラをする人は、認知症以上に自制が効かないのが特徴だが、たいていその表っ面(タイムライン)は、美しい料理ときれいごとで飾られている。 それは常に自分を正当化だけしているからで、この相手の非をなじるような者には言葉で己の愚かさを気づかせ、改心させることは至難の業である。

なぜなら、事故や不運で生じたり誰かに攻撃されて生じたトラウマがその根底にあって、その自分に自信の持てない者の「コンプレックス」「嫉妬」という大きな穴・傷が膿んでいる汚臭だからである。

自信のある人間は異論を歓迎し、素直に耳を傾ける勇気を持つ。裏を返せば、自分の思い通りにいかない相手を攻撃するような者は、「自分に自信のない崩壊した人格」ということ。

その問題点は二つあり、一つは攻撃を繰り返し他者に傷を殖やす事で伝染すること。
もう一つは、攻撃することで、その者の傷が更に悪化する事である。

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「勝利者が勝ち取るものは敵意である。
敗れた人は苦しんで萎縮する。
心穏やかな人は、勝敗を捨てて安らかに過ごす」
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目の前で子どもが二人、相手の傷に塩を刷り込みあっていたら・・・
あなたはどうすべきだろう?

大人として、その諍いの元は関係なく間に入るだろう。
私たち人間にとっては、言葉はコミュニケーションをとるために不可欠な要素だ。言葉は情報伝達、意思疎通などの大切な役割を果たしますが、時には使い方ひとつで相互の関係性が、崩壊してしまう。
 「おまえが悪い」「おまえのがもっと悪い」
内容が原因が何かではなく、そこには動物的な勝敗しかないのは容易に想像がつくだろう。

だが動物と違うのはそこに言葉があること・縄張り以上の社会という牢獄の中であることだ。
その狭い空間で、幼稚で暴力的な言葉はハウリングを起こしその後、その後その社会で負の連鎖を起こす。

 片方が自分がもっとも嫌なことを相手にすることで相手にダメージを与えようとする。その投げかけた暴力的な言葉はその後、ひとり歩きをする。そして、人間性を否定された相手や、罵詈雑言を投げつけられた相手はきっとその日は悔しさと情けなさで、心穏やかにいられないだろう。そこで黙る・敗北する以上に彼らはその後、関係のない周囲の人にも冷たい態度をとってしまい、人間関係の崩壊を招く。
殴るという暴力は自動で増えない。
だが、言葉から生じる憎悪は、記憶できるしコピーできる。 そして、病原体のウイルスのようにどんどん伝播し、その社会全体のなかで負の連鎖を起こしてしまうのだ。

皆さんは、言葉で友達が増え、笑顔が増えて、幸せが増えることを期待してFacebookに参加したはずだ。
出会いを大切にして、自分を大切にするのと同じだけ同じ時を過ごす相手を大切にする。 それが寄り添う

あせらない
あわてない
あきらめない そして ありがとう
 誰に対しても、常に敬意を払い、丁寧な言葉を使うように心がけたいもの。正語を心がければ、和顔につながる。それが和顔愛語の秘訣である。

それでも道場破りのように、和やかな顔が気に入らないという憎悪で、あちらこちらに喧嘩を仕掛ける輩は絶えない。 そんな相手からパワハラ・セクハラ・攻撃を受けた場合はどうするか?  まず、責められる自分自身が悪いんだ、と責任を感じないことが肝要だ。
「一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と賞賛とに動じない」
勝敗とか正義だ善悪だ以前に大切なのが、その基になっている我欲である。
我を張って、相手がもっとも苦しむであろう攻撃をした瞬間に、相手が望む地獄の友にあなたが加わる。
それこそが、悪が栄える根源である。

子どもの「なぜ?」「どうして?」への対応が鍵を握る
子どもに限らず人の力を伸ばせるチャンスは、「なぜ?」と「どうして?」です。子どもたち、とくに幼い子どもは好奇心が旺盛です。彼らにとって世の中はたくさんの不思議に満ちた世界に見えています。みなさんも「なぜ、こうなるの?」「どうして、こんなことが起こるの?」としつこく尋ねられたことがあるでしょう。

相手の憎悪は、痛みから恐怖を感じて彼らが触れなくなったゴミ箱から湧くハエである。
だが、子どものように見ること、聞くこと、感じることのどこかに「?」を抱いている。
物事を俯瞰してみたり、第三者的に考えればわかることが、地獄の池巡りをし過ぎて固くなってしまっている。
だが、相手になぜ?という気持ちが少しでも生まれれば、そこに考える力が育まれ、自然と頭は柔らかくなっていきます。

ただし、子育てと同じでその際に絶対やってはいけない対応があります。
「これはこうなっているから」と、すぐに正解を「教える」ことです。エビデンスが・・有識者が・・こうすることで知識を与えていると思ってしまいがちですが、それは相手を知の光で照らすのではなく、多くの場合ただのあなたの自己満足・優越感から来る嫌がらせで、知恵の泉に飢えて誰も助けてくれない飢餓状態の相手にはただの逆効果です。さらに、最悪な言葉は「忙しい」「うるさい」「ばか」と聞いてくること自体を否定してしまうことや相手の存在自体を否定することです。このような行動や言葉をかけられてしまうと、相手は自分から考えることをやめてしまいます。 子どもにそんな事をしたらどうなるか想像すればわかりやすいでしょう。

では、子どもから何か質問された時、すぐに答えを出さず「何でだろう?」と、子どもに問いを返せばどうなるでしょうか。
幼いなりに、子どもは自分で答えを考えるようになります。つまり頭を使うのです。何か新しいことに出会うたびに疑問が湧き、考える子どもに育てるのが吉です。そうやって考えれば考えるほど、子どもの頭には次から次へと新しい疑問が浮かんでくるはずです。そうすることで、いろいろな可能性や関係性に気付く頭の柔らかさを手にシェアすることができるのです。

どんな人でも誰でも人であるかぎり考える力を持つ可能性を秘めています。それを信じて、適切なタイミングで然るべき対話ができれば、間違いなく相手は文字通り光明を得るでしょう。

「知識欲」という言葉があるように、「なぜ?」と考え、答えを得ることができれば「嬉しい」とか「楽しい」という気持ちが湧き上がってきます。 欲望に忠実な相手なら、考える時間が長ければ長いほど、得られる喜びも大きいとその慾を煽るのもすでに人生経験の長いあなたなら容易なことでしょう。

記憶・計算能力が高い子どもだった人ほど物事を考えなくなる傾向が大きい。これは算数の問題を見て計算だけで解けない場合に、考えることをすぐに諦めてしまう。
先に述べた、回答のない問題という人生を楽しめないのです。

自分の持ち味である計算の速さや、正確な記憶だけで即答のみが正解というスコアが得られない問題では面白くないからです。東大出に早稲田慶応・・・立派な企業には頭を使えない子どもから育ってしまったミニ安倍氏が沢山います。 サイコパスと言っても良いかも知れません。 「お受験対策」などで幼稚園に入る前から、テストの対策法など教え込んだりされて、その後の子どもの伸びしろを奪われてしまった人であるリスクが高いのです。 覚えることと考えることはまったく違います。自分で考えたうえで得た答えは生きていく力になりますが、ググってわかることや詰め込まれた知識は簡単には定着しません。
それを強引に「こうなんだ」と定着させようとすればするほど、その人・子どもの頭は固くなってしまいます。

相手のために良かれと思ってやった結果が逆効果になってしまう、これほど悲しいことはありません。
対話し続ける。 相手に寄り添って、一緒に学ぶ。
今度、誰かにあなたが喧嘩を仕掛けられたら・・・是非一度試してみてください。

それが、結果としてあなたが言葉を何かを人を学ぶ最上の機会ですから

参照:https://www.facebook.com/takashi.marui/posts/2844858045598236

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