農業中心の発想が自然を破壊・・・実際、地球環境をもっとも破壊している産業は農業である。忘れてはいけない。

「士農工商」は、後代の明治政府が創ったもの。近代以降、西洋から輸入された農業中心の発想が自然破壊を加速させた―。

網野善彦と、「もののけ姫」で網野史学の映像化を試みたといわれる宮崎駿との対談を紹介します。

「網野善彦対談集2 多様な日本列島社会~宮崎駿との対談」より引用
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宮崎 いま、「百姓」というのはうんと貶められた言葉として使えなくなっているわけですが、一体、士農工商という言葉を作ったヤツは誰なんだろうな。そんなスパッと階級を区分けして、強制できたほど有能な為政者がいたんだろうか。

網野 士農工商はイデオロギーで、実態ではありません。中国大陸のあり方を儒者が日本にもち込んだもので、説明しやすいからさかんに使っていますが、事実ではありません。江戸時代の身分制度の基本は、武士と町人と百姓の3身分で、僧侶、神官や被差別民を含む一部の職能民はそれとは別の身分です。しかし、これでは海民や山民の入る余地がまったくありません。この時代、都市として認められていたのはほとんどが城下町で、かなり大きな都市も「村」だったのです。奥能登の輪島も、瀬戸内海の倉敷も村ですがら、そこにいる商人や船持などはみな百姓、水呑になってしまうんですよ。

宮崎 町じゃなければ、どんなに大きな経済力をもっていても、みんな“水呑百姓”なんですね。水呑百姓というのは食べるものがなくて水を呑んでいるからだとばかり思っていたのに(笑)。

網野 土地をもてない人だけでなく、土地をもつ必要のない大商人、大廻船人も水呑になっている。そう見ていくと、江戸時代のイメージは大きく変わってしまいます。それまで農民が人口の8割以上を占めていたとされましたが、実際は、多く見積もっても4割くらいだと思います。それなのに農民一色に考えられてきたのは、明治政府が戸籍をつくるとき、士農工商で分けて、漁民も林業されている人も、「村」の商人、職人も、「百姓」はみな「農」にしちゃったからですよ。

宮崎 士農工商をはっきり分けたのは明治政府だったのか(笑)。

(中略)

網野 昔の日本人の暮らしは、自然と一応うまく調和していた。そのバランスが崩れ始めるのが室町期からで、江戸後期になると、米をつくると儲かる、だから、農業を発達させればいいという発想が本格的に出てきます。その思い込みで、湖や潟を埋め立てて水田を開発したことが、それまでの調和のとれていた生業の全体のあり方を崩していったのだと思いますよ。

宮崎 山本周五郎さんが昭和28年に書いたエッセイにあるんですけど、当時は食糧不足の時代なんですが、こんなに国土を水田で荒らしてどうする、取り返しのつかないことになるぞと書いていましたね。

網野 農業中心の考え方は近代以降ヨーロッパからも入ったんですが、僕はどうも向こうの歴史学自体に問題があるのじゃないかという気がしているんです。森や川や海だっていろいろな意味をもっていたはずなんですが、それが無視されている。少なくとも日本に紹介されたヨーロッパの歴史像は偏っていて、それが近代の日本の歴史学の歪みを加速したのじゃないかと思います。裏返していうと、われわれは自分たちを過小評価し過ぎているように思います。江戸時代の終わりの日本人の庶民のもっていた職能的な能力、商業の帳簿の組織などは非常に高度だったと思いますよ。だから、ヨーロッパと接触したとき、縦の字をパッと横に直してしまう。その証拠に、商業関係の用語はみな在来語でしょう。

宮崎 ええ。「手形」とか「為替」とか、翻訳語じゃないですね。

網野 株の用語の「寄り付き」や「大引け」「取引」「相場」「切手」など、みな古い言葉なんですよ。
職人の世界も同様で、西洋建築が入ってくると、日本の大工はそれを5~6年でマスターしてしまう、あっという間に外側は西洋建築で、なかの技術はぜんぶ日本製という建築をつくってしまうわけです。だから、日本の近代化が早かったのは奇跡でも何でもない。一握りのえらい人がいたからではけっしてないので、もともと非常に高度な技術を、日本の普通の人、百姓がもっていたから、欧米からきたものをすぐ消化できた。そういう地盤そのものができていたのですが、その本格的な出発点にあたっているのが室町時代なんです。
そうした歴史の事実をきちんと見直して、再評価することが必要だと思うんですよ。

宮崎 そうなれば、エンターテインメントの世界もいまとは全然違ったものになりますね(笑)。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=338480

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