教える授業について中間まとめ1

教えない教育を考えるとき、教える教育とはどんなことなのか一度考えてみました。

生徒にとって教えられる教育とは?

英語の例・・・「ヘローエブリワン。今日はレッスン5ー2をやります。それでは○○さん読んでください。・・・はい良くできましたね。ただ、ノートブックはノを強く読むんですよ。注意してください。では、次に●●さん訳してみてください。・・・はい大体いいですね。ただ、代名詞は具体的に何をさすか分かるように訳すといいですね。そこのゼムは日本人に、ですね。では、ここで習う文法の説明を板書しますからノートに写してください。・・・今日は所有格です。私のは、マイ。あとは単語や連語は文法ではないからしっかり繰り返して暗記するようにしてください。来週、単語テストをしますからね。宿題として、毎日ノートに練習してそのノートをテスト前に提出するように。では今日の授業はここまでで終わります。」

●画一授業・・・浮きこぼれ、落ちこぼれなどまるで生徒が悪いような言葉がありますが、仮に平均的な生徒を対象にして最大多数の最大幸福を目的としたとしても、統計学的にピッタリなニーズを持つ生徒は6割以下だと想います。なので、2単元目には0.6×0.6=0.36、3単元目には×0.6=0.216・・・1年後には偏差値分布通りの成績分布になります。

浮きこぼれや落ちこぼれは生徒が悪いのではなく、画一授業のやり方に忠実に従うと、必然的に生じる結果です。

●教える側の計画授業・・・教科書によって一般動詞から教える授業とbe動詞から教えるものがあります。実践上は一般動詞から学ぶのは自然なのですが、なぜか三人称単数が出てくるとつまずく子が毎年一定数現れます。これはなぜか?などのような教科書側の原因の考察が長年放置されているとしか言いようがなく、これを回避するためにはbe動詞から導入するのが良いと言えますが、そうすると、どんなときにDoが付くかつかないかで混乱する子も一定数現れます。何年たっても一定数分からない子が出てくるということは、教科書内容がそのように作られている、分からない人を生み出すようにできているということです。

教科書は母国語を学ぶ時のような感動を生み出せず、暗記させることで対応させることによって、知らぬ間に感動力、思考力が落ち、それによって構造化する能力を著しく低下させる。

●テストの強制力・・・テストが調べられるのは暗記力と平均点と順位。調べられないのは、感動、コミュニケーション、思考力、構造力、未明課題への追求力そして活用例の評価。

●ネタバレ・・・授業内容が教科書なので、どんな子どもたちにとっても、質問が生じる前にネタバレしています。さらにひどいことに、場合によっては下の学年で暗記すべきものであったと叱られたり、上の学年で習うものであると先延ばしされます。しかし実際には、高校3年生まで頑張って暗記したとしても、男女のこと、友人のこと、不文律のこと、制度のこと、仕事のことなど、知りうるのは教科書外からであり教科書にはのっていません。

感動は現在生じるのであり、そのときに大切にしないと感動の封鎖に直結する。せっかくの課題の発見、未明の発見なのに、握りつぶすことになる。それに誰の感動であってもそこから始まる感動と課題の共有は本当は未解決のことが多く、ほぼ全ての子どもにとって知りたいポイントから大きくずれてはいない。

●変域の問題・・・どんな教科でもある条件が与えられ、その条件には様々な変域が設定されています。この変域は思考を固定する上では大切ですが、思考を開放する上では制限になり。とくに旺盛な吸収期である子どもたちに無配慮な変域を設定すると思考が固定され、長年の固定観念になります。理科離れが長年続いているのは、学校教育で教科書の変域を超えて理科を教えられる人が激減しており、これは連携不足の専門分化によるものとみられます。連携できないのは感動の共有や集団課題の共有ができていないということだと想いますが、それは他の分野でも同じような環境にあるので、とくに理科的分野で停滞していることを意味します。理科は技術の基盤であり生産の基盤でもあることから、西側諸国の科学の停滞と大きく関係しているはずです。

英語でも長年の分かりやすい停滞が見られます。飼い犬にドッグ、ステイなどの英語を当てはめても違和感は少ないです。日本人の吸収力は世界一位であると考えます。日本語に当てはまる語が無ければ外国語をそのまま受け入れやすいようにするし、外国語の意図しない付加価値までのせて日本語化します。再生産された日本語が逆輸出されて英語に付加価値を与えることすらあります。さらに言えば、英語自体もインド人のほうが話者は多いしスタンダードな英単語、語法、文法、および最先端の単語セットくらいしか、共通点は無くなってきていると聞きます。それに本当に第一外国語は英語で良いのか、第二外国語はいらないのか?という問題もあります。

またいっそのこと、世界標準的な英語をベースにすることと並行して、実際にビジネスマンや英語論文を書く日本人学者がどの程度の英語でOKなのか、英語教育に利権の絡まない人々で話し合ってもらいたいという希望もあります。

●教科書そのもの・・・おそらく社会科が好きだった人々の多くは、教科書より新聞や資料集の方が役立ったのではないでしょうか。教科書にはお話は書いてありますがお話のお話は書いてない。ようやく大学に行って選んだものについて多少学びますが、ぜんぜん全体像が見えて来ない。それは最初から謎のまま始まります。石器時代の前はどんな暮らしをしていたのか?日本列島ができる前はどんなだったのか?分からないことは分からないと言ってもらわないと、子どもとしては疑問や質問を挟みようがなく、分からない部分の膨大さの中で分かる部分の膨大さだけを暗記対象として強制されます。しかも分かる部分の膨大さは国の決めた正解のみなので、決めたこと=お約束と、事実、の不整合がキリスト教暗黒時代のように長期化します。要するに不実を暗記しないと進学できないという構造、したがって事実を知ろうとしない構造に強制的に子どもを巻
き込んでしまうというのが教える教育であると想います。

長くなりそうなのでこの辺で中間まとめ1を終わります。

 

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