かつての日本は、性の悦びが、生の喜びと一致していた=幸せな国

かつて、小さな島国で、誰もが羨むような幸せな生活をしていた日本人。
簡単に言えば、男も女も、性で充たされていたのだろう。

それは、生活や人とのかかわり、仕事、男女関係、子育て・・・全てが身体・集団・本能と合致していた。

性の悦びが、生の喜びと一致していた時代。
活力再生のカギは、やはり性の充足(=本能の解放)が握っている。

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週刊代々木忠より(リンク

ビデオの現場で多くのことを学んできた。それらは本やブログ、メディアの取材などでその都度語ってきたけれど、いちばん影響を受けた学びとは、いったい何だったのだろうかと考えてみた。

 ひとつに絞るのはなかなか難しいが、しいて言えば「本能を育てる」ということになると思う。ビデオの現場だから本能的なる映像が求められるわけだが、これが一筋縄ではいかない。本能的になることに、どこかで躊躇(ためら)いや迷いが生じる。性に限らず、本能的なことを下品であり野蛮だと見なす空気が社会に蔓延している。

 しかし、本能は生命誕生約40億年の記憶に根づいている。自然と湧き上がってくる本能を抑えるというのは、ある意味、自己否定に他ならない。だから、本能は抑えるんじゃなくて、育てて、成熟させなきゃいけないんだと、僕はある時期から強く感じるようになった。

 現場で女の子に「本能というのはね、母性の赤ちゃんなんだよ」と言ったことが何回もある。本能が成熟すると、対人的感性が育ち、人を慈(いつく)しむ心が芽生える。そうして母性が開花するのだ。子どもに甘えられても抱きしめられないという女性に、ここ最近何人かお会いした。

 男の草食化が取り沙汰されてもう何年にもなるけれど、これもまさしく本能が影響している。79歳にして「週2回ないとオレは頭がおかしくなる」と言ってのけた友人の話を前回書いた。「セックスができる・できないは、男性ホルモンが出ているか否か」だと。

(中略)

 昔だったら日々をあるがままに生きていれば、本能は成熟したのかもしれない。けれども今という時代、なにより体を動かさなくなった。危険を遠ざけ、煩わしいことを避けるようになった。便利な生活を手に入れる代わりに、僕たちは以前よりずいぶんヤワになったのかもしれない。そして、セックスもしなくなったのだ。

 だが、この流れはおそらく止まらないだろう。ますます文明の利器に頼ってしまうことになる。セックスについても、よりいっそう大きな快を得ようとすれば、カネさえ出せば精巧なニセモノが用意されているのだから……。

 渡辺京二著『逝きし世の面影』(葦書房/平凡社ライブラリー)という本がある。幕末・維新の時代、訪れた外国人たちが見た日本の姿を綴っていて興味深い。ほんのさわりだけ紹介しよう。

 〈いまや私がいとしさを覚え始めている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人びとの質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことのできなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない〉

 これは駐日アメリカ総領事館の通訳を務めたヘンリー・ヒュースケン(1832~61)の言葉だ。もうひとつ、イギリスの詩人エドウィン・アーノルド(1832~1904)の言葉。

 〈その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである〉

 ここに描かれているのは、対人的感性豊かな私たち祖先の姿なのである。

(引用終わり)

 

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