秦氏は、全国で神社を建てたというが、それはユダヤの流れを汲んでいるという。
秦野エイト会さんリンクより転載させて頂きます。
■応神天皇と秦氏
・日本の文化の基礎は秦氏が創った?
秦氏は言うなればエンジニア集団であり、政治的な成功を求めず経済的な成功のみを求めた。
従って、秦氏は様々な政治環境のもとで、生き延びて経済的な成功のみを収めた。
様々な政治環境のもとで「目立たないが役に立つ」集団であることを目指したのであろう。
秦氏は、大山阿夫利神社のような多くの神社を各地に作り、 大衆が求める薬を売ったりして、現在のコンビニ的な役割を果たし、 日本の文化の基礎を創ったと言えるのではないか。
そして、秦氏の価値を最もよく理解していたのが、昔の天皇家ではなかったのだろうか。
昔の中国や朝鮮は、秦氏の価値をよく理解できなかったらしい。 だから、秦氏は昔の中国や朝鮮を去り、日本に定住し同化した。
秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。 ■応神天皇と秦氏の関係
「 初期の天皇の系譜についてリンク」を引用。
・応神天皇の時、秦氏一族が渡来
応神天皇の時、記録にあるように、大陸から渡ってきた秦氏一族(120-127県(あがた)=数千人から1万人規模)が、 天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。
また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。
秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。
すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、
現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。
・秦氏によるユダヤ文化の導入:
ここで、最も驚くべきことは、大和朝廷を建て上げるために天皇家を大いに助けた秦氏一族は、 クリスチャン、しかも、ユダヤ教的な(あるいは、ユダヤ人の)、 しかも、原始キリスト教徒(一部、景教徒も含む)であったことである。
それは、秦氏が設立にかかわった宗教的な建物や習慣に、 ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ性だけではなく、 新約聖書からの教理や教えが、秦氏が渡来した初めから含まれているからである。 ■秦氏が建てた建物
「 初期の天皇の系譜についてリンク」を引用。
・伊勢神宮の外宮
外宮が建てられたのは21代雄略天皇の時(内宮は11代垂仁の時とされるが詳しいことは分からない)と 言われている。
神道用語で「造化三神」である、アメノミナカヌシ(豊受大神)、クニノトコタチ、ウカノミタマ(顕現の神、稲荷大神)は、 明らかにキリスト教の三位一体(それぞれ、父なる神、子なる神、聖霊)を表している。
外宮には、このうちのアメノミナカヌシ(天の真中に座す神=父なる神)が祀られている。
秦氏は、内宮で祀られている、カナンやエジプトの地にもあった偶像崇拝起源の「太陽神(アマテラス)」ではなく、 旧・新約の両方に共通の「父なる神」を祀ったのである。
・稲荷神社
景教(ネストリウス派・東方キリスト教)では、イエス・キリストのことを、 しばしば、「JNRI」、あるいは、「INRI」と表現する。
これを読むと「インリ」、すなわち、「イナリ」となり、「稲荷」は当て字である。
安閑天皇の時代に、秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てた。
最初に建てられた稲荷神社は、和歌山県有田市の糸賀稲荷で、 この地方は現在も「王子信仰」が盛んな地でもある。
建立時の稲荷神社は霊験あらたかで、瞬く間に日本全国へ広がった。 (狐が祀られるようになったのは、後の8世紀になってからで、空海による)
・四天王寺
聖徳太子が建てた四天王寺は、実は神社であり、玉造(たまつくり)の地にあったことがいくつかの文献にある。 イナリの神が祀られ、聖徳太子はそこで戦勝祈願したといわれる。
587年に最初に建てられた地には、現在「玉造稲荷神社」が建っていて、 鳥居は赤くなく、西向きであり、現在の四天王寺の西門にも鳥居がある。
・宇佐八幡宮
現在応神天皇が祀られている宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は、 元々、応神天皇が拝んでいた神が祀られていた。
宇佐八幡宮は、秦氏が創建した全国の八幡神社の中心であり、 そこには本殿が3つあり、本来は3つの神(三位一体の神)が祀られていた。 「八幡」とは、元々「ヤハタ」と読み、「ユダヤ」を意味するヘブル・アラム語の 「ヤェフダー」、あるいは、「秦氏の神」の「ヤハ・ハタ」から来ている。
749年に、ここから初めて神輿(みこし)が上京したが、 神輿は旧約聖書の「契約の箱」に酷似している。 |